「伝書鳩よ、夜へ」第15話(全19話)
「ーなんてザマだ、情けねえ」
常連らしい客が、居酒屋の主人に向かって言った。
「それで、この若いのは、一体帰れるのかねえ。大将、こいつは金を払う気もないよ」
するとずっと苦虫を噛み潰していたこの居酒屋の店主は、どこからかバケツを運んで来た。それに黙ってたっぷりの水を満たすと、勢いバシャーッとタコ男藤枝にぶっ掛けたのだった。
「下戸のくせに酒なんて呑むんじゃねえ!たかだかコップ一杯の酒でぐでんぐでんになりやがって。金は明日必ず払ってもらうからな。何だって女々しいヤツだ。顔も見たくねえ。けえれけえれ!!」
店主の怒号が夜の空気を震撼させ、常連客たちに手足首を掴まれた藤枝はというと、店の外へと乱暴に投げ出されてしまった。
桔梗はこの顛末に唖然とするばかり、ぽかんと間抜け面をしたままその場に佇んでいた。
…しかしながら藤枝とは一応のアルバイト仲間だという意識から、嫌々ながらも桔梗は自ら律儀の性根に従い、通りに放り出された藤枝の様子をひとつ見に行ってやった。
藤枝は冷水を引っ被ったおかげで、タコの境地をどうやら脱したようではあった。路肩にうずくまる姿は、惨めったらしく、惨めであることに安寧する本人の意思が、さらに惨めっぽさを加速させてしまっていた。
桔梗は藤枝の肩を揺すった。
「ー藤枝くん、わかる??千坂です。夢二で一緒のさ、千坂桔梗です」
しつこく腕と肩をグラグラ揺らし続ける事しばらく、ようやく上げた藤枝の顔は涙と鼻汁で光っていた。相手が桔梗と認めるなり、急に弛んで、またも咽び返った。
「アリーさんが、アリーさんが」
と嗚咽する。
「アリーがどうかしたの?」
(第16話へつづく)
「伝書鳩よ、夜へ」第14話(全19話)
(前回までのあらすじ)
…対人恐怖症の同僚・藤枝より、アリーへの恋文手渡しを頼まれた桔梗。しかしながら彼女は生来のご都合主義から、この役目を放棄する。一方、医師との愛人関係に、アリーは苦悩し、疑問を感じていた。…
金曜夜の街は、開放感に満ち満ちている。街も人も大変饒舌だった。
桔梗は、この、明るい夜の一部始終を見逃すまいと、パチパチ、パチパチ目を瞬かせ、瞳に写す作業に専念した。そうしている内に、目カメラは、二軒先の居酒屋で、一人暴れ喚く若い呑んだくれを写し捉えたのだった。
男は相当に酔っているようで、誰彼かまわず絡んでは、両腕をブンブン振り回していた。けれど殴る蹴るの一切は無く、只々激しいブンブン回転を繰り返すのみで、男の威嚇は威嚇と言うよりも、リズム体操と言った風で見ていて滑稽なのだった。
桔梗はしばらく遠目にこの様子を眺め観察していたのだが、あまりの滑稽さにどうも出来心の好奇心が芽生えてしまった。呑んだくれを目カメラで追跡、段々に近付いて、気付いた時にはブンブン男と同じ軒下に座していた。
もう、茶碗やらコップやら、割れてどうしようもない。はす向かいに座る酔客は、腕振りに疲れたらしく、今はと言うとくだを巻いて隣のサラリーマンに絡んでいた。
よく耳を傾けると、男は意中の女性がどうこう言っており、続いて「あのアリーさんが」と言う文言が飛び込んで来た。
ハッとした桔梗は、瞬時に、この元ブンブン男が、藤枝本人であることに気付かされたのだった。
藤枝はぐでんぐでんのタコ男と化していた。苛立ったサラリーマンが金を払って出て行くと、その肩に全体重を預けていた藤枝はバランスを崩して、ベンチから地べたに崩れ落ちた。軟体類生物よろしく、くねくねぐにゃぐにゃ手脚を動かすのが精一杯、起き上がる事が出来ずにいる。
タコ男状態にある最中も、まだ「あのアリーさんが」とか、「アリーさんがあんな男と」「アリーさんがあんな事を」とむにゃむにゃ繰り返し、やがて思い出したようにむせび泣きをし始めた。
(第15話へつづく)
【ブログ更新時間について】
オッハヨー火曜!
小学生男子ばりに夏休みに限り早起きの、のびでございます。
さて、ブログ更新時間がランダムだという貴重なアドバイスを貰った小生、
更新時刻を
①朝っぱら6時
若しくは、
②夜ッパラ6時
に固定してみよかとおもいます。
ロクロク!ろくでなし!
と覚えてね!
今朝はリフレッシュするため小説はお休みよん。
夜ッパラ6時にまた更新あるかも?小説の更新は果たしてあるのか?!
てなわけで皆さん良い日を!ピカ〜としましょう!
「伝書鳩よ、夜へ」第13話( 全19話)
菊屋通りには昔ながらの定食屋、カレー屋、たこ焼き屋、ラーメン屋台、たい焼き屋やら中華そば店、焼き鳥屋、最近ではトルコ人のケバブスタンドやネパール料理店、タイレストランなども参入し始め、どこもかしこも安価で食わせてくれるのだから、懐の寒い住民達はこぞって菊屋通り周辺で飲み食いした。いわばここは、街の胃袋なのである。
桔梗はたい焼き屋の常連で、小腹の足しにちょくちょく買いに行くものだから、たい焼き屋の主人とは顔馴染みだった。
「ーおじさん、今日も美味しいのちょうだい」
そう言って小銭を出す。
「今夜は遅いね。お疲れさん」
たい焼き屋の主人はただそれだけ言って、桔梗の定番、芋餡チョコレートたい焼きを紙に包むのだった。
雨上がりの舗道を、桔梗はココナッツ号を牽いたまま歩いた。
芋餡の量がいつもより多い。
このことに非常に気を良くした桔梗は、口笛の一つでも吹いてやろうか、とにんまりした。
先程自分が焦り疲れて三丁目カフェを後にした、その事実はもう背後だった。背後に去った訳だから、安堵してたい焼きを食っても良いのである。
いつもより餡の量が少しだけ多い、ただそれだけの偶然が、桔梗の足を夜の菊屋通りに引き留めていた。
通り向こうで太った男が大笑いしている。野太い男の笑い声に、女子大生の一団、キャッキャとはしゃぐ声が、二階店からパラパラ鉄砲雨のように降り落ちて、居酒屋の軒先では酔いの回った勤め人達が、いつ終えるともなく仕事を愚痴っている。
どこかの窓からか手拍子、下手な唄に皿の割れる音、くしゃみ、それらすべて、夜のマントは手品師の技でくるり上手に包み込むのだ。
(第14話へつづく)
「伝書鳩よ、夜へ」第12話
勘定を払ってしまってから、そそくさと店を出た。
ドアをくぐった瞬間、湿った梅雨の外気がモワッと全身に襲いかかって、思わず息詰まった。
終日、小雨が降ったり止んだりの繰り返しだったが、宵時には上がっていた。
酷い湿気だ。辟易するも、見上げた夜空は、甘く澄んでいる。
回復した天候に励まされた。
桔梗は頷くと、かすか微笑んで、淡い翠色の車体が涼しい、相棒のココナッツ号にまたがった。
不思議にまんざらでもない気分になっていた。そして降って湧いたまんざらでもない気分を、落とすまいと大事に大事に抱え、路地を漕ぎ出でたのだった。
菊屋通りは、夜と言えども人通りが多い。昼間以上の通行人が溢れている。
商店の殆んどは深夜近くまで店を開けていた。道なりに進むと、やがて早稲田通りにぶつかる。するとその辺は住宅街である。桔梗のオンボロアパートは通りを渡って、環状七号線沿いを野方方面へ向かった先の、中野区銅貨窪町、寂れた商店街の一角にあった。
ココナッツ号で行けばせいぜい10分程度の距離である。
ここいらの住民と言えば、昔からの土地持ちか、そうでなければ独り身の学生だのアルバイトだの、ホステスだの売れないミュージシャンだの役者の卵だの、芸術の志者や貧乏人ばかりの寄せ集めで、8割以上の住民が倹しい独り住まいを余儀なくされているのだ。
家賃はどこまでもピンキリ、大小様々、そこらじゅうにアパートが林立し、老いも若きも、夢を追いかけ夢に生き、狭いアパートの窓から大きな空を見上げ暮らすのである。新宿からわずか15分の立地にもかかわらず、新銅貨窪には、未だそういう泥臭さが漂っているのだった。
(第13話へつづく)
「伝書鳩よ、夜へ」第11話
「ねえ、キキ。私のお付き合いしてるのはね、お医者なの。二十も上だけど、私、あの人のこと、とっても好きよ」
「英語もフランス語もドイツ語も堪能で、ロシア語だって少しばかり話せるの。彼ね、何でもくれるのよ。会うたんびに素敵な首飾りだったり、傘だったり鞄だったり、甘い香水だったり、高価な果物だったり。この前はルブタンのヒールだったわ。どうしてこんな色々くれるのか質問したら、彼は決まってこう答えるの。君に似合うからって。似合うものだから贈るんだよ、って。彼ね、奥さんと、私とそう年の変わらない、可愛い顔した大学生の娘さんがいるんだけど、その人達には何一つ買わないくせして私にだけは何でも買ってくれるの。週末の夜、私逹、いつも一緒よ」
「…でもね、物ばっかりが増えていくのよ。物ばっかりが増えて、私の欲しいものは一向に増えないままなの。欲しいものを置くはずの場所が、あの人のせいで物が占拠しちゃうじゃないの。ねえ、あんな埋め尽くされてしまったら、大事な愛情は、一体全体どこにしまえばいいの?」
少し興奮気味に話すと、アリーはまた視線を指輪に落とした。
「この指輪だって、彼がくれたの。多分とても高価よ。なんとかっていう名前のね。ー弟がこの指輪を見たらどう思うかしら。きれいな指輪だねとでも思うかしら。私のたった一人の家族、もう何にもわからなくなってしまった、可愛い可愛い私の弟、可哀想なあの子。あの子の暮らした病室には、物も飾りもなくて、ただ汚れて古びたベッドと不潔な毛布だけが置かれて、それ以外には何ひとつなかった。でもね、あそこには、愛情がいっぱいに詰まっていたの。部屋じゅうに、むせ返るほどの愛がね。ー実を言うと私、ずっと、もうずっと、あの弟の病室みたいな場所を探しているのよ。オーストラリアを出て、東京で暮らす今も、ずっと探し続けているわ。いつかはきっと見つかるはずって、一生懸命、自分を励ましながらね」
アリーは溜息をつき、それから桔梗を見て、呆れたとばかりに
「そんな顔しないでちょうだい」
と苦く笑った。
(第12話へつづく)
「伝書鳩よ、夜へ」第10話
...こうも成ったら、もう不審な恋の不審な茶封筒そのままを、帰り際ただ手渡すだけでも充分なんじゃないか。
それは、桔梗にとって救世主のような考えだった。これならば、気安い。達成可能だ。しかも取り敢えず渡すわけだから、一応の目的は果たす結果になる。明日、堂々出勤出来る。
万が一藤枝がネチネチ言ってこようと、どこ吹く風、自分は茶封筒を手放すのだ。嫌味自体が不当と、取り下げに出来る。優位に立てるのは、まず間違いなかった。
雨後のタケノコよろしく、この代替案はにょきにょき四方八方目覚しい勢いで伸び広がり、あっと言う間に心の内を占めてしまった。生真面目さの中にも生来のご都合主義、自己中心性を合わせ持つ彼女は、理想的ではあるが、同時に面倒でもある当初の目標を驚くほどアッサリ捨て去って、恋の成就云々、これにはもう知らぬ存ぜぬ、封筒をただ渡すだけ、代替案への軌道修正に決めたのだった。
二人の間では、「もしハーマンがストレートだったら」について話すのが最近の流行りだった。勝手な推論をして遊んでいるのだ。
お喋りは9時を過ぎても続いた。共に作るでっち上げ恋物語の楽しさから、戸惑いも不安も藤枝の手紙の存在も、又時間の経過すらも忘れて、今晩は饒舌だ。
しかし約束を控えたアリーはというと時間を気に留めていた。
もう行かなきゃ、と小さく言った。
「ーやっぱり、キキは窮屈じゃないわね」
右手に嵌めた指輪に視線を落とし、そんな事を言う。桔梗はふと静かになって友人を見つめた。
努めて朗らかに、彼女は桔梗に聞いた。
「ねえ、キキ。キキは何が欲しい?もし誰かに何でもくれるって言われたら」
質問は唐突だが、自分なりの律儀を重んじ彼女は考える。何でもくれるなどと言われれば薄気味悪いだけだが、欲しいものはと思い巡らせると、
「安心が欲しい」
と情け無い事を言った。
コーヒーを飲み干した。惨めな気分だった。
「じゃあその安心の為に、どういう物が要るかしら」
「パッとは思い付かないな。広い住まいやら美しいアラビア絨毯だのはあっても逆に不安になるよ。好きな小説、三千雄兄さんのコーヒー、赤いマグカップとか良い匂いの石鹸とか、毛布とかは要るよ。ココナッツ号があるおかげで大抵の場所には行けて、過ぎるくらいなんだ。洞窟住居にアレコレたくさんのモノは置けないし、ついでに言えばチョットでも目立つ事をすると、大家の春子婆さんがいち早く嗅ぎ付けて、容赦なく噛み付いてくるんだ」
アリーは声を上げて笑った。
「キキらしいわね、私は好きよ」
(第11話につづく)