「マラカス奏」第3話(全15話)
(前回までのあらすじ)
歳暮の用事で三越まで赴いた茜だが、慣れない人混みと、千疋屋での散財で疲弊する。帰る先は「萩の坂」のオンボロ平家、彼女はここでの暮らしにようやく慣れたようである。
風呂場の雨漏りだけ、手の打ちようが無かった。寒さ暑さは凌いでいる。エアコンは無いと聞いて、夏に越して来ると、買う金も無いので簾を軒先に吊るした。
陽当たりの悪い低地にあるのが良かったようで、厳暑の中、扇風機一台で日の大半が過ごせた。冬の今時分は寝床に湯たんぽを幾つか突っ込む。雨戸と障子戸を補修し、慣れない障子紙の貼り替えまで行った結果、コタツと、古めかしい石油ストーブで間に合っている。
あとは大原の伯母が送ってよこしたドテラを羽織る。
正真正銘、貧乏である。加えて三十を越えながら、未だ独りであった。年を取ってからの子である茜の両親は他界しており、唯頼りにしていた十一年長の兄も、何の因果か、四十三の若さでおととし急逝した。
しばらく、大原の伯父夫婦の世話になった。
辛抱が多かった。伯父夫婦と言えど、毛色は違った。規則に厳しく、二人に子は無かったが、窮屈さに亡兄が一層思い出され、茜は風呂場でよく泣いた。
察したか、大原の伯父が山形にいる弟夫婦に口利きしてくれた。
茜は、その後廃屋同然の平家を、そっくり譲りうけることになったのだった。
初めての一人住まいに、心へ新風が吹いた。活力を得て、長患いの神経症が快癒したほどである。瞳には子供同様、純粋な好奇心がつるつると照っており、金の無さ云々に捉われない、何か魂における子供の領分が、ぐっと間口を広げたようでもあった。…
(第4話へつづく)
「マラカス奏」第2話(全15話)
杏北寺から乗り継いで揺られること十分、萩ノ坂という、今時珍しい、便所に洋式が無い駅の、アジサイ園近くに茜の住まいはあった。
空腹に耐えかね、杏北寺で晩飯を、と思ったが、覗いた財布には千円札すら姿無かった。
千疋屋で散財したのだから、さらに堪え、萩ノ坂のボロ平屋でつましい味噌汁と納豆にでもするのが、道理というものらしい。
大人しく、北多摩湖線に乗車した。
萩ノ坂で下車すると、小粒の雨が音を立てて降り出した。豆鉄砲みたいな音だったので、愉快に思った。子供の時分、BB弾なる玩具が流行り、これと似た音だったことを思い出した。
年嵩の子供達が射ち合いに興じる中、茜は同じ一年生だった少年と、草むらに落ち広がる弾を、拾い集め遊んでいた。BB弾の、色とりどりの丸い弾球が、二人の目には一寸した宝石に映ったのである。収拾したものは大切に、ジャムの空き瓶へ入れ、保管した。
確か、むっちゃんという少年だった。
彼の一家は麺屋だったが、三年生に進級して間も無く、忽然と去ってしまった。アパートに行ってみると、表札が外され、部屋はもぬけの殻だった。遠くへ引っ越したのだという。
夜逃げだったと、のちになり彼女は知った。むっちゃん少年はひと月前の下校時に、彼にとっても宝であるはずのBB弾を二瓶、譲ってくれた。今思えば、餞別だったのかもしれない。
住み始めて半年が過ぎ、平屋住まいもようやく板に付いてきた。
(第3話へつづく)
「マラカス奏」第1話(全15話)
マラカス奏
歳暮を贈った。晴れた日曜だった。
焚きつけるように日本橋三越まで出向き、用事を終えると、彼女は久しく気楽になった。住まいをタダで譲り受けたとあって、その山形の某市に住まう、遠い親戚のS夫婦には、奮発して千疋屋の水菓子か、とらやの羊羹に手紙を添え、必ずや贈るよう、大原の伯父に念押しされていたのである。
多摩地区からやって来た身だ。郊外暮らしに慣れきって、都心の雑踏がどうにも堪える。三鷹以西に生活を根ざし、半年が経つ。出不精の極みとあっては、一歩たりと、そこを離れる意気地も無かった。
百年ほど、舗道を歩き続けた。脚は割り箸も同然、歳末の混雑を進むに頼りない。彼女は駅を目指した。肩が左右不均等に揺れ、覚束ない歩行を重ねよりない。
足を止め、上を仰いだ。藍にくすんだ空の、ほんの下だけが薄紅で、あれは少女時代の自分だなと思った。後から来た人に背を押され、よろめくと、薄っすら汗をかいている自分に気付いた。
冬の陽と落胆が、一緒くたに差している。通りの硝子窓に映る猫背が、寒風を受けてさらに丸まった。困憊顔、地下鉄に乗りこむ。同じ顔した人々の間に、ビッシャと挟まれ今度は押し花になった。
三鷹を過ぎ、杏北寺で乗り換えた。自宅まではあと少しの辛抱、腹が低く唸って、頭は飯のことで一杯だ。
杏北寺は食い気の街と呼んでいい。定食屋、ファーストフード店、ベーグルスタンド、洒脱なスペイン料理屋にたい焼き店、居酒屋。そこらじゅう、食い物が散っている。
(第2話へつづく)
更新時間も冬バージョンになるです
おはようございます🌞
すでに風邪っぴきの小生、今後つづく寒さにどう対処すれば良いのやら、、、
さて、お知らせです。
◉冬生活に向けてブログ更新時刻を、「夜8時」に変更してみたりします!今日からです。
◉新小説連載、始めます!今日から。夜8時によろしくちゃん!
「あなたは最高」最終話(全22話)
キムは手を震わせ、応答しないまま、ただ画面に浮かび表示されるその名前を見つめてた。呼び出し音は続いた。
桔梗はキムを見た。キムも桔梗を見た。悲しそうに笑って、涙目を浮かべた。キムは、応答しようとして、耳にあてがう代わりに、もう片方の手で震えを抑えると、突然、ぶんと力一杯、谷間に広がる赤い街に、電話を投げ捨ててしまった。
「…キム!」
驚いて声を上げた桔梗を尻目に、キムは清々しく笑って見せた。
「ーキキ。あたし、もうサイテーを卒業するわ」
唖然とする桔梗の肩を掴むと、彼女を揺さぶるようにして、キムは言葉を続けた。
「鬱屈神経だかなんだか、あたしよく知らないけど、あなたは最高よ。病気なんか、クソ食らえよ。頑張るのよ」
キムは鼻を啜って、目から涙をポロポロ溢し、悔しそうに上を向いた。
「あたしも、ひとつかましてやるわ。手始めにゴミの収集日を真面目に守ってみるかしらね。ヤケ酒も今夜からストップ。深夜アリーに愚痴らない。…だって、今日からあたしは、最高なんだもの」
そう言って、桔梗のあんぐり顔を笑っているのである。
「それでもって、今日も素敵な夢を見て眠るの。あたし達、まだ全部を失っちゃなんかないわ、ーそうでしょう? 」
これ以上嬉しい励ましが、かつての桔梗の人生に、果たしてあっただろうか。茜空を背後に、桔梗は大きく頷いてみせた。
「それ、最高だね」
「もう、最高よ」
茜色から群青へとかわってゆく空を、並んで見つめた。どちらもが、それぞれの力を信じようとした。そして空が、群青色の夜空に変わった頃、2人各々、ある姿の片鱗を垣間見たのだった。
前へ、前へと進もうとする心強い英雄の姿ー、すなわち紛れも無い、自分自身の背姿を。
了
「あなたは最高」第21話(全22話)
引き摺られるままに歩んだ桔梗だったが、圧倒的な丘の濃緑に、感じ入った。2人は不安だった。
桔梗はキムが自分と同じように不安であることを、感じ取っていた。ー苦手だったあのキムはどこにもいなかった。ここに歩くキムは、友達だった。
舌打ちして、苛々と片手を振り回し、蚊を追い払おうとしていた。複数の蚊が集団となって、飽くこともなくつきまとうのだー。全く離れようとしない。桔梗も、自らのふくらはぎに三箇所、二の腕に二箇所の小さな赤い腫れが既にあることを認めた。こうなるともう、蚊の好きに吸わせてやるしかなかった。やがてキムも、払う手を下ろした。そして吸われるがまま歩くこと数分、突然立ち止まった。
「ちょっと、見てよ。あれ」
キムは前方に見え始めた、赤く燃えるような明かるみを指差した。
「ーねえ、火事じゃないかしら? 街のどこかで火事でもあったのよ」
2人は大急ぎで残りの坂を駆け上がった。
丘の頂へと立った。
それは、火事では無かった。街が燃えているのではなく、空が燃えていたのである。
赤く、どこまでも赤く、それは2人の眼前に広がった。丘からは、果てしなく広がる夕空と、その下で忙しそうな街が、一望出来た。
大きく開けた空、谷間の地形に編み込まれたこの街、それらを、まるで玉座に乗るかのように、2人は無言のまま、まるごと俯瞰した。街を飲み込もうとする夕陽、背後の森もまた、照らし出され異様に赤い。油蝉達が合図したように歌い始めた。西の強烈な光が、すべてを明るみにして、陽光はキムと桔梗の心の暗がりですら照らし、染め上げた。
「ーずいぶんな夕焼け空じゃない」
何分も経った頃、キムが短く言った。さっきからずっと、言葉を探して、この状況を形容しようと試みていた。けれどうまくいかなかった。桔梗はただ、黙って頷き同意するしか出来ぬままに、じっと茜空を目に焼き付けること精一杯だった。キムも、それきり何も言わなかった。2人は肩を並べたまま、失語したままに、同じ方角を、同じ眼をして見た。頬を茜色に染め上げて。
呼び出し音が鳴った時、それでもキムは顔を蒼くして、バネ人形のようにカバンの携帯を探らずにはいられなかった。携帯は鳴り響き、呼び出し続けていた。まるで、元いた場所へ帰る指令でも下すかのように、高圧的で、絶対的な権力を振りかざしている。ー発信者名が出ていた。キムを傷つけ、不自由にした例の恋人が、キムの首根っこを掴み、ここから引きづり降ろそうとしている。
(最終話へつづく)
「あなたは最高」第20話(全22話)
「行くわよ、キキ」
モールの外扉を出るなり、キムが腕を引いて言った。裏手の丘を指している。
「今から?」
「そうよ」
キムはいつになく真剣だった。けれど厄介なことに、桔梗の身体は、神経疲労のために細かく震え始めていた。
ここで無理すれば、数日を寝込むはめになる。しかしキムは譲らない。
「あたしたち、行くべきよ。行かなきゃいけないんだわ。決着をつけるのよ。あたしはあの嫌な裏切り、キキはナントカ神経の問題に」
「この後のシャトルバスは本数わずかだよ。帰ろう。私、もう限界だよ。帰って薬を飲まなきゃならない」
ところがキムは決然と首を横に振り続けるのである。
「行くのよ」
彼女は真っ直ぐだった。
「左眼が義眼になる前に。そうでしょう?」
碧色の瞳は、何かを模索していた。いつになく美しい碧を湛えているものだから、思わず見入った。
「あたし、変えたいのよ。あの丘に登って景色を眺めたら、何かが変わるって言うんだから、お手軽じゃない。ねえ行くわよ、キキ。モタモタしないで、行きましょう。じれったいわね」
そこでキムはとうとう強行手段に出た。太い腕をむんと伸ばし、桔梗の片手をずんと掴むと、引っ張るようにして歩き始めたのだ。こうなると瘦せぎすの桔梗は、アッサリ引き摺られるようにキムの横を行く羽目になる。
桔梗は六畳間の布団を恋しく思った。ーそういう冒険なんてしてる余裕なんて、ないんだ。枯渇してしまたんだよ。元気もやる気も、健全さもー。薬を早く飲みたい。じゃないと寝込むんだよ、、、
2人は丘を登った。丘の傾斜はなだらかであった。帽子を被せたように群生する、種々様々の緑の葉むらに強い西陽が射していた。木立から、蝉、ツクツクボウシ、名も知れぬ虫達による、夏の最期を惜しむ合唱が、堰を切ったように始まったかと思えば、しんと止み、また少しして、狂想曲は再始するのだった。時折訪れる、幕間の沈黙は、2人を奇妙にどぎまぎさせ、その都度、自分たちの行動に果たして意味があったものか、一抹の疑問を抱かせもした。
(第21話につづく)