書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

おでんの気持ち 第二話(全二話)

「このカフェだってそうよ。夜型人間・ダメ人間のためのカフェなんだから、みんなもっと遅い時間に来て、本でも読むか、音楽聴くかすりゃいいのよ。闇あってこその人生じゃないの。リクエストがあればミッチーのLPレコードがあるから、いくらでも大音量でかけてあげるのにねえ。本も音楽もやらないんだったら、取り敢えず来て、ミッチーの珈琲飲めばいいのよ。あれ、変な元気とファイトが沸くのよね。不思議と。さすがミッチーだわ」


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 そんな風に湘子の話を聞いていると、せっかく、小説の為に確保した時間が、容赦なく流れ去っていくようだった。そもそも今日は、時間の浪費ばかりしていた。彼の行いはただ、窓の向こうを見つめていた、それだけに限られた。おまけに女のことなんか考えて、A4ノートは真っ白に広げたままだ。

 

 

 机の上に転がったペンが、持ち主を嘲笑った。消しゴムが蔑んだ。すばるはもういたたまれなくなって、カバンに筆記具を放り込み、文庫本をスキニーデニムの後ろポケットに挿し、立ち上がった。彼は帰宅の準備にかかった。

 

 

 腹を立てている。

 急いでもいる。自分が渇き切って、潤う必要があるのに、彼にはもう小説しか無いように思えた。強力な何かが、背後から彼を追っている。だから三千雄や湘子があんな様子でいることが、もしかしたら羨ましいのかもしれなかった。

 

彼は酷く無愛想に勘定を済ませた。ぶっきらぼうな挨拶を、ちょっと後ろめたく思った。けれどその背後の何かに追い立てられ、彼はそのままCafe No.33を後にした。

 

 

 すばるは庚申通りを抜け、銅貨窪駅のガード下をくぐり、さらに方南町方面へと南下した。

 

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湿気った土が、もうもうと、雨後の匂いを彼の鼻腔へ運び上げた。

環七通り沿いの木々には、既に新緑が芽吹いている。それがやけに眩しかった。彼は少し冷静になろうと努めた。

 


 小説はあまりに巨大だった。

 書店に座って、納得がゆかなかった。カフェに座って、納得がゆかなかった。自分は、文章の向こう側を知っている人間だと信じてやまなかった。本当はそうなのだと思いたかった。けれど違った。その向こう側はコンクリート壁に頑丈に阻まれ、一切を、見ることも、聞くことも出来なかった。彼が見ようとすればするほど、それは見えなくなる。

 

 通りの先に、赤提灯がぶら下がっている。

 

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 背の低い、痩せこけた猿の顔した爺が、いつものようにおでん屋台を出している。親父は年中、霜焼けみたいな手で客に酒を出した。客は客で、常連だった。品の悪い笑いを浮かべて、爺と酌み交わす。すばるはここに集うひとたちが嫌いだった。彼らは理想も屈辱も、知らない体で酒呑むことが出来るらしかった。そのことに、すばるは軽蔑し、嫉妬する。

 

 -おでんの気持ち。

 赤提灯に照らしだされた、この屋台の横を通過する際に思い出した。彼は今度は小さく独語した。おでんの気持ち。

 三千雄は、陽気に火星人とはんぺんの戦いについて語っていた。すばるは足を止めて屋台を凝視した。

 

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 はんぺんが、がんもが、大根が、つくねが、鍋にぎゅう詰めにされ茹だっている。彼らはぐつぐつ呟いていたが、ふと気づいた頃には、あんな汚い爺に、おたまでひょいと掬われる。そして灰色背広姿の客たちの喉へ落ち、胃袋へと落ち、肛門へ、落ちてゆく。

 

 

 すばるはじっ、と前を向き直った。

(決して。決して)

彼は足早に、夕闇迫る環七通りを歩み進んだ。

 

                                  了

おでんの気持ち(全二話)

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 (どんどん埋没している。最後は、きっと、墓穴だ)

書いて消し、消しては書いたが、いっこうに進まぬ。ノートはただ、黒ずんでゆくだけである。三時間が経過した。

 (梶井は三十一で夭折した。芥川も、太宰も、三十代でサヨナラだった)

 通りを眺めた。

 (-俺は)

眉根を寄せた。

 (輝くこともないまま、死ぬのだろうか。もし、仮に寿命がそうなら。ただの一度も、納得せずに、死ぬのか。いいのか。説明出来るか。俺は俺を許すのか) 

 

 人生百年時代、と謳う人達が彼には浅ましい。

寿命、という濃い影が常について回る。人生は限りなく有限である-、叔父の若い死が残した訓戒は、同時に強迫観念として、彼に蓋した。

 

 叔父の孝は、路上で突然倒れた。彼と母親が駆けつけた時、既に亡くなっていた。

亡骸というものと初めて対面した。

最期に大きく息を吐き出し、叔父は逝ったようだった。彼は叔父を覗き込んだ。

 -とても、つまらなそうな顔してる。何故かその時、思った。中学生だった。

 

 「すばる君。聞いてくれ給え」

窓から視線を戻すと、座席のすぐ横に、三千雄が立っている。

Cafe No.33は三千雄と、彼の十年来のガールフレンド・湘子の切り盛りする店である。こじんまりして、別段繁盛のようすも無かったが、根強いファンがある。単身者の寄せ集めである銅貨窪らしい、コアなカフェとして存続している。

 「このイラストについて、すばる君に意見して欲しいのだ」

縦縞模様のエプロンが、長身の三千雄をさらに高くした。

 「僕はね、火星人とハンペンについてさんざん考えたよ」

三千雄は切な顔してみせた。すると自作イラスト数枚を、すばるの前に広げる。

 「つまり、すばる君。僕はこの、弱き、ぺろんぺろんしたハンペンの存在を大声で叫びたいわけなんだ。僕らは、つくづくおでんの気持ちについて、軽視しているのだ。ちゃんと理解する必要があると、思わないかい?」

 

 この三千雄という男は、落胆も失望も持ち合わせが少ないという意味で、大変幸福な人間であった。彼とすばるは大学の同級で、同じ時期に中途退学した盟友である。三千雄はすばるをいたく気に入って、一方すばるは人間が得意でない。役割が明確である。年月を重ねた旧い友情は、互いのスタイル変えることなく続いている。雲雀の三千雄が謳えば、地を這う蛇のすばるが、少し眩しそうに空を見上げる。

 

 小雨が窓を打ち始めた。

 三千雄はすばるの意見を求めたわりに、何か別の用件を思い出すと、友人が口を開くのも待たず、そそくさ姿を消してしまった。それっきり、厨房であった。

白紙のノートと、鉛筆がしんどかった。すばるは雨に濡れた舗道を、街を眺めた。小窓の向こうに青果店がある。店頭に広げた葉物も根菜も、まして果物類なんかは―、雨を受けて生気を取り戻し、艶めいている。彼は瓜実顔の常連客を思った。

 ―妙な女だった。いそいそして、いつも怯えたようにやって来るくせに、書棚を眺める時だけは、やけに真剣で集中しきっている。背表紙をくまなくねちっこく目で追い、手に取るなり、あとはもう誰もいないといった風である。週に三日ほど来る。そのうちの一度は、一冊か二冊を、吟味の末に買って帰った。

女が本棚に目を凝らす度、すばるは自分の衣服を剥ぎ取られるような感覚を憶えた。女の目は湖だった。なみなみと湛えられた黒の瞳、そこに映る全てが、実直のようにすら見えた。繊細な睫毛はパチパチと、新しい発見に驚いてページをめくる。湖は時折揺らいで、零れそうになったりしながら、純粋に愉しんでいる。

 

 それらのイメージが、ぐんと彼の心を飲みこんだ。偽りも曇りも、一切無い。透明に焦がれて、彼は、停滞する自分を、どこかから誰かに見透かされているような気がした。くすぶりが、恥ずかしくなる。

 

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 「―あらあ、また書いてるのねセンセイ」

振り返ると、湘子が水をグラスに注ぎ足している。

 「すばる君、次こそはイケるといいわねえ」

 「センセイ、ってのはやめてくれって言ってるじゃないかよ」

厳しい視線を返したが、湘子は我関せず、

 「すばる君が作家センセイになった日には、このカフェのことでも書いて欲しいもんだわねえ」

などと気楽である。

 「あたしねえ、夜勤明けなのよ」

湘子の話は常より唐突な出だしから始まる。

 「まったく、夜勤だとおかしなことも起こるのものだわね」

 なにやらそう呟くと、湘子は隣のテーブルを片付け、拭いた。彼女は或る精神病棟で、准看護士として勤めていた。彼女の勤め先は、緑溢れ、広大な敷地を誇る大施設だったが、日暮れが近づくと、ひと気がとたん途絶える。そこをねぐらにしているカラスも集って来る。街灯もまばらで、夜道が大変暗い。その為、病院は近隣から不気味がられ、人々は日頃より敷地内の舗道を避け、迂回路を通った。

 

 湘子は三千雄同様、機嫌の良い女だ。

他の客がはけてしまったので、つまらないらしい。大きな独り言のような話を、どんどん重ねていった。

 「それにしても、昼に生きるなんて、つまらないじゃない」

                                   (続く)

宵闇ゆく(一話読み切り)

 

 あんまり耳が膨張するものだから、閉ざしてしまいたい。何も、誰の声も聴きたくない。何も、知りたくなんかなかった。

 

 街は弛緩している。花芽の匂いが、しどけなく土の温気に溶けていた。それはサイレンの歌声に似て、通行人達を惑わせている。呑気なのだ。

 

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 実際には、そういう、呑気な春だった。なのに疲れていた。もうクタクタで、しょげている。花芽なんて、見てもいなければ見えてもいない。匂いなんて。

 翻訳が、一向によくならない。進まずに放っておいたら、締切はぐんぐん近付いて、彼女の胸ぐらを掴んでしまった。先方からの催促も、不快を伴った文面で、するとますます、訳がよくならない。

 

 不甲斐ない自分を、もうひとりの自分が睨み目光らせていた。自身のたりなさを許せぬ自分は、実際のところの自分を、仁王の形相で睨めつけている。腰に手をあて仁王立ちしている。

 仁王の自分は、馬鹿者!と一声に叫んだ。仁王の手で、実際の自分の、頬を張ってくる。何度も何度も張って、何を言うにも張って来る。―駄目じゃないか、下手くそ、締め切りは。また失敗か。また後悔か。また夜か。締め切りは。もう夜か。散々に打って来る。

 猛るこの自分に、赦しを乞う。しかし、相手は何せ仁王の自分、通じたものではない。

 

 通る人達の内に、津田茜の姿はあった。今晩もまた、彼女の眼は曇り硝子を嵌め、疲弊が彼女を押し花に変えていた。帰路の途上にある茜は、銅貨窪駅で下車し、カタツムリの行進中である。

 

 花芽なんて。花だから芽だからって、上機嫌と限ったものか。背景を見よ、背後は夜闇だ。

 

 何度繰り返すかわからない。吐けと言われるなら墨汁でも吐き出せそうだった。もう何年も、不安を患っている。焦りが喉までこみ上げている。焦燥が汚した胸は、就寝の時刻まで元の通りになるはずも無い。焦って焦って、結果、彼女はぐんにゃり萎れていた。

 今晩も、こうなのだ。いつまで、自分は待てば良いのだろう。いつになったら、自分は着手するだろう。何だかこわいのだ。出来やしない。ただの一語も、訳せない。先方は怒っている。

 夜に、沈んでゆく。とても静かに、気取られもしない。黙々、職人顔して沈んだ。茜はもたついて、歩き方を識らぬか忘れたようだった。そんなだから、下を向き歩いた。

 

 純情商店街を抜け、庚申通りへ折れる。

すると、急に思い出したように、賑わいが降って湧いた。

それは、茜の胸を灯す気配があった。庚申通りは、惜しげも無く手の内を見せて、浮世の金曜、人の気も知らず我、鬱に関せず、陽気に、だだっ広く騒いでいる。

 

 茜の頭上、居酒屋の二階から、ぱちり、ぱち、と手を打つ者があり、拍子木のような音は、鉄砲雨となって通りに零れた。音が路上で弾ね、踊ったかと思うと、一瞬茜を振り返った。

 (それにしても)

茜はもつれる歩調に気を遣いながら、

 (音って奴は奇妙だ。愉快者だな。きっと消えてゆくのに、どうしてか幸せそうじゃないか)

ほうっと二階店を見上げ、彼女はちょっと口を開けてみた。

すると笑い声と、誰かの手を鳴らす音がやはり落ちて来る。茜はそれを飲み込んで、ちょっと満足した。

 

 タコ焼き店と商売敵の今川焼屋。


ここを通るのは勇気が要る。なにせ茜は今川焼の常連で、そのせいでタコ焼きが自分を目の敵にしているのでは、といつも勝手に心配だった。その心配は度を越しており、ガタイのいいタコ焼屋に、いつか首根っこ掴まれるんじゃないか、そのうちアパートに怒鳴り込まれるんじゃないか、と本気で思い込んですらいる。

タコ焼きをやり過ごし、今川焼のオヤジに会釈した。

 「おじさん、美味しいのちょうだい」

茜は百円玉を出した。すると相手は機嫌が良かったらしい。

 「アンタ、いっつも同じので飽きるだろ。今日は一個、おまけしてやるよ」

 

 タダで貰った芋餡味を食いながら、ぶらぶら歩いた。締め切りは、一回忘れる。少し、歩き方がわかって来た気がした。

 

 焼鳥店がある。

 

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 網に敷かれた串刺しを、タオルを頭に巻いた男が団扇であおいでいる。古い換気扇がゼイゼイ言っている。肉と油の匂いが立ち込めて、煙はと言うとずんずん昇ってゆく。

 夜空の群青に吸い込まれてゆく煙を、茜は目で追った。その先に星が出ていた。やがて牛飼い座を見つけた。餡を齧った。そしてなんとなく、この感じがちょっとは気に入って、小さな口笛を吹いてやったのだった。

                                 <了>

              

「マラカス奏」第15話(最終話)

  茜はテーブルの上のジャム瓶二つを自分に、もう二つを菊比呂の前に差し出すと、やおらインターネットラジオを点けたのだった。

 

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すると、かつて菊比呂が熱病に罹ったように聴いていた、七十年代ロックが、オンボロ小屋には似つかないクールさで流れ出した。

   

  茜は手本を示すつもりか、ジャム瓶を振ってみせた。中身のBB弾が上下し、シャカシャカ、マラカスの要領だ。そしてそれを菊比呂にもやるよう、促した。どうやら、これが彼女の言う元気法らしい。

 

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   菊比呂は、お人よしで衝動的で変人気質の従妹を相手に、もうまな板の上の鯉である。

 

(ええい、ここはひとつ、やろうじゃないかよ。馬鹿丸出しにでもしてやるさ)

 

  彼は観念した。―ああ、毒を食らわば皿まで。

やがて何かが吹っ切れた。立ち尽くすのを止め、金品奪うようにBB弾マラカスを素早く手にしたかと思うと、もう、ヤケッパチのヤケッパチ、シャカシャカシャッシャ、シャシャカシャカ、力いっぱい瓶を振ったのだった。

 

  菊比呂は振りに振り続けた。振って、振って、振り落としたかった。彼は情熱のマラカス奏者、シャカシャカシャッシャッシャ。― マイアのこと、モーブのこと、面倒な茜のこと。シャッシャカシャ。―金のこと。火曜日、マークに借りて、それっきりの三千円。シャカシャカシャッシャ。亡くなった隆志兄、可哀相な隆志兄、葬式は氷雨。一寸前まで生姜焼きを食って喜んでいたくせに。では俺の未来は。

 

マイア、マイアさんは去った、マイアさん......

 

(了)

「マラカス奏」第14話(全15話)

   

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  彼の眼前には、瓶詰めが四つ並んでいた。その向こう側で、茜が温厚な笑顔を浮かべて待っている。

「何だよ、これ」

瓶には何やら、小豆を小さくしたような、球体色とりどり、まんまる玉がギッシリと詰めてある。―ラムネだろうか。いや、駄菓子の類か。

「もう俺は食い物はいやだからな」

「菊ちゃん、私、いいこと思いついたんだよ」

茜は彼の言葉を完全に無視して、機嫌良さげにそんなことを言う。

「元気になれる方法、見つけたよ」

菊比呂は目の前に隊列組む、ジャムの空き瓶を一つずつ手に取り、しげしげ見つめた。

 

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中身の小粒玉は、どうやら恐れていた食料では無さそうである。茜がティッシュを差し出すと、彼は鼻汁をかみ、一寸落ち着き具合になった。

「…これは、なんだ?」

ひとしきり泣いた後の声には、変なビブラート音が混じって、彼は自嘲気味に笑うのだった。

茜は、お構いなく説明を続けた。

「―これね、BB弾っていうおもちゃの、弾玉。子供の時分、射撃ごっこみたいのが流行ったでしょう。わたしと、大親友だったむっちゃんは、みんなが弾を撃ちまくったあと、夕方頃から道路に出向いて回収したんだ。綺麗でしょう」

 

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茜は立ち上がり、自分用にまたコーヒーを沸かし始めた。節約大前提、薬缶はストーブの上に置いて、ガス代を切り詰める習慣らしい。

 

  泣き疲れた菊比呂は、一寸ぼんやりだ。然し、ぼんやりしようとしまいと、鬱屈は、確実に巣食っている。主観の世界における彼はどん底なのだ。

「…是非とも教えてくれよ。何だってやるさ」

半ばヤケッパチ、茜の勧める元気法は何か、全く想像がつかないものの、少しでも元気になれるんだったら、それで良かった。

 

(第15話へ続く)

「マラカス奏」第13話(全15話)

  茜が、おかわりを注ごうとしていた。 

「いらない。もう、本当にいらない」 

彼は慌てて従妹を制した。茜には意外だったらしい。 


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「菊ちゃん、遠慮はいらないよ。寒いんでしょう」 

「ちっとも寒くなんかない、いらない。絶対にいらない」 

菊比呂はカップを手で塞ぎ、断固阻止した。そして、また、マイアを思った。失恋者の彼は、急激な悲しみに打たれ、気づけば涙目涙声、従妹に向かってつぶやくのだった。 

「…お前の神経は不安のアレで駄目なんだろうけど、ひとつ教えてくれよ。俺は、俺は、一体どうやったら幸せになれるんだ。マイアさんが愛の告白にそっぽを向いた瞬間、バラの花も俺の自尊心も幸福も、ぜんぶ散りつくしてしまったじゃないか。俺はね、もう本当に、再起不能なんだ。神経病みの茜に、こんなこと聞くのは、とんだお門違いって、そりゃあ分かってるよ。だけどこんな不安を、憂鬱を、どうしたらいいんだ。俺の心は今晩と同じ、真っ暗な冬至だよ。つらいよ、俺はきっと病気になるだろうよ」そこまで言うと、菊比呂はむせび泣いた。 


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(―情けない、情けない。俺は王子のはずだろう?王子が従妹の前なんかで泣くのかよ。王子失格、人間失格。生まれて来て、スミマセン。ああ姫は、俺の愛を捨てたんだ。俺はハナッから見捨てられていたというわけだ…) 

 べそべそ泣いて、そんな菊比呂を見守るのは、自分の好き勝手にしたい茜にとって大変面倒なことであった。が、確かに彼の敗れ方は派手派手しかった。真っ赤なバラの花束を、キザな文言で捧げる菊比呂を、マイアはこともあろうに、誰と知らなかったのである。こう振り返ってみると、それなりに胸は締め付けられ、痛んだ。 

 
  同情するよりなかった。菊比呂の食べ残した、ブヨブヨにふやけたグラノーラと、呑み残しのコーヒーカップをソロソロと静かに下げて、思案顔、ただただ洗って、食器棚に片付けた。 

 

 

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ドン、という音、キッチンテーブルに何かが置かれたようだった。うつ伏せにしていた菊比呂は、涙に濡れた顔をのろのろと上げた。

 

(第14話へつづく)

「マラカス奏」第12話(全15話)

  彼の災難は続いた。茜の淹れたコーヒーはろくな代物ではなかった。

 

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  あまりに不味いので、どうしても全部飲み干す気になれずにいるところへ、夕食に、とグラノーラなんぞを勧めて来たので、彼は絶望したように、「過酷な人生、罰ゲーム」だの、「俺のカルマ…」だの、「俺は想像妊娠で生まれた子」、「不幸の星の王子さま」「赤髪の王子はグラノーラをお召し上がり」「赤い髪の王子さまにも、とうとう赤紙が…」など、ボソボソ言い続け、けれど腹を空かせていたので、渋々グラノーラをすくって食べるよりないのだった。 

 

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  不安症のくせして変に都合良く楽観的なことが多い。菊比呂がうまそうに夜のグラノーラを食べていると思い込んで、満足だった。 

  すると機嫌の良さがいつもに増して茜の食欲を増進させた。もっうちょっと食いたい気になった。ザバザバ皿に落として、豆乳をドブン、カリカリせっかちに咀嚼し、同じことを二度、繰り返した。  


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  こういった従妹の衝動性は、例え見知っていても菊比呂にはなかなか慣れ難いものだった。生真面目だが、欲望に非常に忠実、無害の変人。彼は茜をそう定義し、定義しては消沈してため息が出る。  
 


  今、彼の心に浮かぶのはただ、敗れた恋の相手・マイアの笑顔だった。マイアは茜のアルバイト先の英語学校に勤める、向日葵のような笑顔が愛くるしい女性で、確か二十四か五だった。


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  菊比呂の一目惚れから始まり、嫌がる茜をどうにか説得して、大枚はたいて購入した、真っ赤なバラの花束を彼女の前に差し出した、あの瞬間―。あふれんばかりの愛を告白するあの瞬間まで、菊比呂は夢の世界に生きていた。生きとし生けるもの、すべてが美の宿命を持ち、まばゆいばかりに輝ける、夢の世界に。

 

 (…ところが、夢から醒めた俺ときたら、茜のオンボロ平屋で不味いコーヒーと不味いグラノーラなんかを渋々食らって、つまり、不幸の赤星の王子さまは、姫を失くし悲嘆にくれているのだ) 

 

   菊比呂はまたも自己陶酔と、空想夢想に取り掛かっていた。彼は不味いコーヒーを啜り、オエとなった。 

 


(第13話へつづく)