書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

「伝書鳩よ、夜へ」最終話(全19話)

   階下の大家宅には、未だに灯りが点いている。

 

f:id:sowhatnobby164:20180819223410j:image

 

  婆さんは起きているのか寝ているのか。喚き散らすテレビだけ饒舌の上機嫌、小言とお節介の婆さんについて、それ以外を桔梗は知らない。

 

  兎に角、抜き足差し足だ。
  気取られぬよう窓の脇を通過すると、そこは申し訳程度の玄関である。桔梗は、緊張した面持ちでポケットの茶封筒を音無く取り出すと、それを婆さん宅の郵便箱に、そっと、見送るように投函した。

 

   まさに、恋の葬送だった。厳かな儀式を執り行っている。 

   桔梗は、郵便箱に落ちる封筒が、コトリと果てたのを聞いた。そうして夜に、静けさに消えていった。婆さん宅のテレビだけが、下卑た笑いで騒いでいる。

 

   こうして桔梗は、役目を終えた。


   それから後のことは、記憶にない。

   必死に六畳間を目指し、飲むべき薬を飲み、布団へ滑り込むと、そのままグースカ寝てしまったらしい。疲れ果てていた事実だけ、思い出せる。

 

f:id:sowhatnobby164:20180819224120j:image

 

   翌朝、窓の外はいつもと代わり映えしない梅雨空であった。

   けれど、今朝という朝には、もう藤枝の恋は存命しなかった。単純明快の茶封筒が、伝書鳩の夜にひっそりと葬られた事も、決して公言してはならないのだった。

 

   桔梗は寝不足の眼をゴシゴシこすり、何時ものように台所へ赴くと、ラジオを付け、コーヒーを淹れた。陽気にジャズが流れている。  

   桔梗はちょっとの間、考え事した。タイ粥やら図書館で次に借りる本、ハーマンの小部屋の匂いについて考えた。1日の心構えについてもイチイチ考え、少しは何とかやって行けそうな気分を得たことに充足すると、何時も通り、日めくりカレンダーを勢い良くビリリとやった。

 

f:id:sowhatnobby164:20180819224442j:image

 

   6月23日、土曜日の登場である。出勤まで少しばかり時間があった。

   キッチンでコーヒーを啜る時、この台所が、新しい1日の台所である事が、奇妙な程に桔梗をホッとさせる。困惑も、疲れも不安も、日付けの境に仕切られ、それを飛び越えてまで、彼女を追いかけ捕まえることは出来ない。

 

   平和な朝だった。日付けの数字が22から23に変更された事実に護られ、護られた今朝は、暢気であった。

 

f:id:sowhatnobby164:20180819224855j:image

 

   近くの電線に座る鳩が、ぐるると喉を鳴らし、歌っている。彼らも又、この朝における暢気者だろうか。ぐるるぐるる、新しい旋律が歌われ始めていた。

  

  街の、あらゆる場所で、かつての記憶は喪われようとしていた。いくら藤枝と言えど、きっといつかは失恋の痛手、不様な酩酊を忘れるだろう。アリーは愛における疑念を、桔梗は不安と抑うつを、だんだんに忘れ、だんだんに見失ってゆく。どこかの夜に、葬られてしまうのだ。

   そして、まるで本物の暢気者にでもなったかのように振舞い、また失い、後はもう前しか見えないような人間のお面を被り、また、笑っていなければならないのだった。

 

(了)