「伝書鳩よ、夜へ」最終話(全19話)
階下の大家宅には、未だに灯りが点いている。
婆さんは起きているのか寝ているのか。喚き散らすテレビだけ饒舌の上機嫌、小言とお節介の婆さんについて、それ以外を桔梗は知らない。
兎に角、抜き足差し足だ。
気取られぬよう窓の脇を通過すると、そこは申し訳程度の玄関である。桔梗は、緊張した面持ちでポケットの茶封筒を音無く取り出すと、それを婆さん宅の郵便箱に、そっと、見送るように投函した。
まさに、恋の葬送だった。厳かな儀式を執り行っている。
桔梗は、郵便箱に落ちる封筒が、コトリと果てたのを聞いた。そうして夜に、静けさに消えていった。婆さん宅のテレビだけが、下卑た笑いで騒いでいる。
こうして桔梗は、役目を終えた。
それから後のことは、記憶にない。
必死に六畳間を目指し、飲むべき薬を飲み、布団へ滑り込むと、そのままグースカ寝てしまったらしい。疲れ果てていた事実だけ、思い出せる。
翌朝、窓の外はいつもと代わり映えしない梅雨空であった。
けれど、今朝という朝には、もう藤枝の恋は存命しなかった。単純明快の茶封筒が、伝書鳩の夜にひっそりと葬られた事も、決して公言してはならないのだった。
桔梗は寝不足の眼をゴシゴシこすり、何時ものように台所へ赴くと、ラジオを付け、コーヒーを淹れた。陽気にジャズが流れている。
桔梗はちょっとの間、考え事した。タイ粥やら図書館で次に借りる本、ハーマンの小部屋の匂いについて考えた。1日の心構えについてもイチイチ考え、少しは何とかやって行けそうな気分を得たことに充足すると、何時も通り、日めくりカレンダーを勢い良くビリリとやった。
6月23日、土曜日の登場である。出勤まで少しばかり時間があった。
キッチンでコーヒーを啜る時、この台所が、新しい1日の台所である事が、奇妙な程に桔梗をホッとさせる。困惑も、疲れも不安も、日付けの境に仕切られ、それを飛び越えてまで、彼女を追いかけ捕まえることは出来ない。
平和な朝だった。日付けの数字が22から23に変更された事実に護られ、護られた今朝は、暢気であった。
近くの電線に座る鳩が、ぐるると喉を鳴らし、歌っている。彼らも又、この朝における暢気者だろうか。ぐるるぐるる、新しい旋律が歌われ始めていた。
街の、あらゆる場所で、かつての記憶は喪われようとしていた。いくら藤枝と言えど、きっといつかは失恋の痛手、不様な酩酊を忘れるだろう。アリーは愛における疑念を、桔梗は不安と抑うつを、だんだんに忘れ、だんだんに見失ってゆく。どこかの夜に、葬られてしまうのだ。
そして、まるで本物の暢気者にでもなったかのように振舞い、また失い、後はもう前しか見えないような人間のお面を被り、また、笑っていなければならないのだった。
(了)