「色眼鏡」最終話(全13話)
蒸し暑い夕方だ。
帰宅すると、桔梗は氷たっぷりのグラスにクランベリージュースをなみなみ注ぎ、すぐに半分を喉に流し込んだ。水分補給不十分なまま過ごしてしまった。熱中症にならなかったのが不思議だ。
南西向き部屋だから、西に傾く陽の光をもろに受けて、キッチンも毛布もサボテンもニンニクも文具類も食器類も、オレンジ色一色であり、まるで部屋そのものが太陽なのではないかと勘違いするほどだった。
桔梗は購入したレモンパイとアスパラガス、数種類のチーズと、自家製ココナッツオイルを手提げから取り出すと、キッチンテーブルに整列させた。愉快な家族でも得たような気分である。
開け放った窓の向こう、大家がほうきで掃く音が聞こえる。
ラジオをつけ、少し早い夕餉の支度にかかった。アスパラガスを茹で、冷蔵庫で眠っていたベーコンと一緒に塩胡椒して炒めると、使い残しのパスタに和え、挽き粉にしたチーズをパラパラとやった。ラジオでは最初オルタナティブ・ロックがかかっていたが、しばらくするとレゲエに切り替わって、夏が自己主張していた。
大家は夕闇の迫るころになると、やがて撤収していった。陽が沈んだあとの部屋はラジオの音で満ちたりて、パスタもまずまずの出来具合である。
キッチンテーブルで記録帳を付ける。
ー日曜日、蚤の市にて。
○三千雄兄さんのジョッキコーヒーは夏にピッタリ、プラシーボ効果で元気を得る。
○ジャム屋の混雑は圧力が強かった。やはり対人恐怖。混雑は避けるべきだろう。
○噴水広場の子ども達、ベンチの老教授。アイスクリーム屋の嫌な笑い方。安値、120円。うまくもなかった。
そこで桔梗はふと、色のことについて考えた。今日自分が目撃した、数々の色彩、突き刺さるいくつもの視線、自身へと投げつけられ続ける色の迫力、これらを振り返って反芻した。
ジャム屋の前で伸びてきた何本もの腕の記憶。日焼けの赤や老斑の茶褐色、細っこい蒼白の肌、ジャム屋はブルーベリーにレモンカート、女の子は食べた、ミントグリーンのアイスクリームを食べた、老人の犬はアイスクリームを見た、黄ばんだ毛色で見た。そして視線が老教授を見た。色はからだじゅう突き刺さっていた。...
すると、その経験した溢れかえるほどの色彩を吸い込んでしまった。鮮やかさに、頭がクラクラして椅子からひっくり返りそうになる。息が苦しくなって記録帳をとじ、慌ててベランダへ出た。深呼吸する。肺に吸い込んだ色彩、これがぐりぐり胸を塗り尽くしていた。鬱屈は消えたのでは無い、ただ、上塗りされただけだった。
ベランダにはどうやら雨の形跡があった。通り雨の仕業に違いない。消し忘れのラジオが、高らかに宣言していた。
明日、つゆが明けるらしい。
(了)