おでんの気持ち(全二話)
(どんどん埋没している。最後は、きっと、墓穴だ)
書いて消し、消しては書いたが、いっこうに進まぬ。ノートはただ、黒ずんでゆくだけである。三時間が経過した。
(梶井は三十一で夭折した。芥川も、太宰も、三十代でサヨナラだった)
通りを眺めた。
(-俺は)
眉根を寄せた。
(輝くこともないまま、死ぬのだろうか。もし、仮に寿命がそうなら。ただの一度も、納得せずに、死ぬのか。いいのか。説明出来るか。俺は俺を許すのか)
人生百年時代、と謳う人達が彼には浅ましい。
寿命、という濃い影が常について回る。人生は限りなく有限である-、叔父の若い死が残した訓戒は、同時に強迫観念として、彼に蓋した。
叔父の孝は、路上で突然倒れた。彼と母親が駆けつけた時、既に亡くなっていた。
亡骸というものと初めて対面した。
最期に大きく息を吐き出し、叔父は逝ったようだった。彼は叔父を覗き込んだ。
-とても、つまらなそうな顔してる。何故かその時、思った。中学生だった。
「すばる君。聞いてくれ給え」
窓から視線を戻すと、座席のすぐ横に、三千雄が立っている。
Cafe No.33は三千雄と、彼の十年来のガールフレンド・湘子の切り盛りする店である。こじんまりして、別段繁盛のようすも無かったが、根強いファンがある。単身者の寄せ集めである銅貨窪らしい、コアなカフェとして存続している。
「このイラストについて、すばる君に意見して欲しいのだ」
縦縞模様のエプロンが、長身の三千雄をさらに高くした。
「僕はね、火星人とハンペンについてさんざん考えたよ」
三千雄は切な顔してみせた。すると自作イラスト数枚を、すばるの前に広げる。
「つまり、すばる君。僕はこの、弱き、ぺろんぺろんしたハンペンの存在を大声で叫びたいわけなんだ。僕らは、つくづくおでんの気持ちについて、軽視しているのだ。ちゃんと理解する必要があると、思わないかい?」
この三千雄という男は、落胆も失望も持ち合わせが少ないという意味で、大変幸福な人間であった。彼とすばるは大学の同級で、同じ時期に中途退学した盟友である。三千雄はすばるをいたく気に入って、一方すばるは人間が得意でない。役割が明確である。年月を重ねた旧い友情は、互いのスタイル変えることなく続いている。雲雀の三千雄が謳えば、地を這う蛇のすばるが、少し眩しそうに空を見上げる。
小雨が窓を打ち始めた。
三千雄はすばるの意見を求めたわりに、何か別の用件を思い出すと、友人が口を開くのも待たず、そそくさ姿を消してしまった。それっきり、厨房であった。
白紙のノートと、鉛筆がしんどかった。すばるは雨に濡れた舗道を、街を眺めた。小窓の向こうに青果店がある。店頭に広げた葉物も根菜も、まして果物類なんかは―、雨を受けて生気を取り戻し、艶めいている。彼は瓜実顔の常連客を思った。
―妙な女だった。いそいそして、いつも怯えたようにやって来るくせに、書棚を眺める時だけは、やけに真剣で集中しきっている。背表紙をくまなくねちっこく目で追い、手に取るなり、あとはもう誰もいないといった風である。週に三日ほど来る。そのうちの一度は、一冊か二冊を、吟味の末に買って帰った。
女が本棚に目を凝らす度、すばるは自分の衣服を剥ぎ取られるような感覚を憶えた。女の目は湖だった。なみなみと湛えられた黒の瞳、そこに映る全てが、実直のようにすら見えた。繊細な睫毛はパチパチと、新しい発見に驚いてページをめくる。湖は時折揺らいで、零れそうになったりしながら、純粋に愉しんでいる。
それらのイメージが、ぐんと彼の心を飲みこんだ。偽りも曇りも、一切無い。透明に焦がれて、彼は、停滞する自分を、どこかから誰かに見透かされているような気がした。くすぶりが、恥ずかしくなる。
「―あらあ、また書いてるのねセンセイ」
振り返ると、湘子が水をグラスに注ぎ足している。
「すばる君、次こそはイケるといいわねえ」
「センセイ、ってのはやめてくれって言ってるじゃないかよ」
厳しい視線を返したが、湘子は我関せず、
「すばる君が作家センセイになった日には、このカフェのことでも書いて欲しいもんだわねえ」
などと気楽である。
「あたしねえ、夜勤明けなのよ」
湘子の話は常より唐突な出だしから始まる。
「まったく、夜勤だとおかしなことも起こるのものだわね」
なにやらそう呟くと、湘子は隣のテーブルを片付け、拭いた。彼女は或る精神病棟で、准看護士として勤めていた。彼女の勤め先は、緑溢れ、広大な敷地を誇る大施設だったが、日暮れが近づくと、ひと気がとたん途絶える。そこをねぐらにしているカラスも集って来る。街灯もまばらで、夜道が大変暗い。その為、病院は近隣から不気味がられ、人々は日頃より敷地内の舗道を避け、迂回路を通った。
湘子は三千雄同様、機嫌の良い女だ。
他の客がはけてしまったので、つまらないらしい。大きな独り言のような話を、どんどん重ねていった。
「それにしても、昼に生きるなんて、つまらないじゃない」
(続く)