書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

 

 

 

 きっと、世界中探しても、居場所は無かった。何故なら、世界は眼であり、視線である。そこらじゅう、眼という眼が飛び交って、何処までも付け回してくるのだから。

 

 

f:id:sowhatnobby164:20200131123333j:plain

 

 優月はかつて、「花園の住人」である自分自身が、一等、自慢だった。ランウェイを進む彼女は、過剰な自意識と衣装を貼り付けた堂々の胡蝶蘭であり、バラであり、デイジーであり、百合であった。着飾り、髪を結い、同年代の女の子がどれほど憧れようと、手に届かない。羨望の眼差しは、彼女の心を肥大させた。

 

 (上・中・下、上・中・下。…さてあの子は下だわね。下の下、かもね。お気の毒)

 他人の容姿の採点が、習慣であった。そうすることで、肥大した心は喜んで、また太った。優越に太り、太った先に優越した。

 この世で何も恐ろしいものなど、無かった。彼女はその細い身に、肥満の魂を宿し、ぶくぶくと脂肪を蓄えた。

  

 ストロボがたかれ、いくつもの表情の優月が、現像され浮かび上がった。そこには彼女自身の、一対の眼があった。カメラも同様、眼である。ファインダー越しの眼。広告の彼女を見る女の子達。彼女らもやはり、眼である。すべてが眼だということに、彼女は強い意義を見出した。

 

 (上・中・下、下、下、下…)

そんな風に歩いているから、車両とぶつかりかけて、側溝に転倒してしまった。転んだ勢いで革鞄が数メートル先まで飛んで行ってしまい、おまけに身体を強打したようだった。立ち上がるにも立ち上がれない。通りすがりの青年が、優月の鞄を拾い、親切にも抱き起こしてくれた。

 「助かったわ」

礼らしくもなく礼を述べた。青年はと言えば、優月の姿に見入っている。特に珍しいことでもない、と鼻を鳴らしたが、青年は何やら蒼白だった。人々が優月の周囲に寄って来て、揃って蒼白である。優月はさすがに、自分の容姿がこれほどまでも人を惹き付けるとは知らなかった、肥えた優越の思いで、髪を搔き上げた。すると指が生温かい。

 

f:id:sowhatnobby164:20181026071459j:plain

  

 指には血がついていた。髪がぐっしょり、血に濡れている。何が起きたか、わからまいまま顔に触れた。

 ―無い。

血塗れの手で、顔を何度も触った。―無い。

 嘘だ、ただの冗談だ、そんな呑気なことを言う状況ではないらしかった。青年が救急車を呼んでいる。周囲に野次馬がわんさか集まる。視線が、わんさか集まる。眼が、いくつもの眼が、私を見ている。…

  

 

 あれから、二年経つ。心が太ることは一度たりと無かった。優月はモデルを辞め、職を転々し、いずれの職場も、一ヶ月経たぬうちに辞めた。 

 いつだか通ったことのある道はどこも、様相を変えていた。あらゆる場所で、眼がギラギラ光っていた。陽気な鉄砲雨の笑い声は遠のき、かわりに別の鉄砲雨の笑い声が降ってくる。それはカラカラと彼女の不運を嗤った。四方八方には眼が浮いて、見世物見物、じっ、じっ、じっ。射られて、怯えて、足を早めた。

 

 

f:id:sowhatnobby164:20200131123333j:plain

 

 彼女は逃げる。眼は日々日々追ってくる、庚申通りに抜ける、あずま通りに折れる、早稲田通りを渡る、陸橋交差点を越える、眼はどこにでも存在して、どこまでも監視が可能だ。気づけば駆けていた。ひと目つかぬ、暗い小路の近隣にて、やっと安堵を見出した感があった、同時に追跡も甘くなった様である。

 やっとこわばりが緩んだ。紐解くように。目の周りがじんわりする。心悸が、少しは大人しい。

 

 

 アパートの階段を、上った。築年数四十五年の、カビたボロ雑巾のような異臭を放つこここそ、彼女の住まいであった。

 アパートは食肉処理場の裏手に建っている。隣にはゴミ屋敷の住人があり、精神を病んだ老人が、毎日のように何がしかの荷物を放置し、おまけに白内障の犬がいつもやかましく吠えていた。

 

 こんな物件で、本当にいいのかと問われれば、全く問題ないのだった。優月には人通りの無いこの路地裏のアパートこそが理想であり、有り難かった。

 部屋へ着く。荷物を下ろしてやっと、独りきりになる。カーテンをすべて閉め切った、この北向きの部屋。ここに着くと、いいんだよ、と誰かに優しく言われている気がして、涙が出そうになる。―だいじょうぶ、もう誰も見ていないから。

 眼の気配はようやく去った。夜の帳が降りると同時に、瞼閉じたりするものなのだろうか。

 

 優月は顔の包帯をくるくる解いて、かつて鼻のあった箇所に、今日も軟膏を塗った。そして、気付かれないようにそっと、カーテンの隙間から外を覗き見る。

 窓からは、遠く列車の走るのが見える。不器用に線路軋ませ、光の残像残し疾走するあの列車は、果敢で美しいのかもしれない。―優月は小さく憧れ、それから疲れた顔で吐息すると、再び、カーテンを閉めた。

                                         

                                                                         了