書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

MONDAY(全6話)

最終話

 

 

 

 「おい、」

 ―声がした。

 声は太かった。ぐっ、と肩を掴む者がある。身体を前後に揺すられる。ミアは薄く目覚め、ゆっくり、鈍く、瞳を開けた。―辺りは闇に塗れ、どうやら日は沈んだらしい。

 「おい、起きろ」

声の主は繰り返す。修理工だ。野太く響かせ、闇の向こうを指している。

 「ああ、畜生。起きろ。降りるんだ」

 「うるさいわね。ちゃんと起きてるじゃない」

彼女は眠い目をちょっと吊り上げた。むくむくと身を起こす。

 「―で、着いたのね?」

 どうにか、無事高円寺に戻れた。身も心も晴れやかになって、車を降りた。

 

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 …軽トラックは、自販機の前に停まっていた。

 この自販機はどうやら食料店の裏手で、すぐ隣はスナック、通り向かいに営業時間を過ぎた金券ショップとある。この類の店をミアは頻繁に利用したが、暗い看板に見えるその店名に、聞き覚えは無い。スナックの電気看板も、通りに並び立つ街灯も、建物も、何もかもが馴染みない。

 

 修理工は、既に乗車していた。エンジン音に慌てて、ミアは窓を何度も叩いて男を引き止めた。

 「なんだ」

 「ちょっと、どういうこと?高円寺じゃないわ」

修理工はフン、と鼻を鳴らしてみせた。

 「その自販機の修理で、今日は終わりなんだ。あとは勝手に帰ってくれ」

 「うそよ、あんた嘘つきだわ」

 「嘘?何のことだ。俺はただ、今日やるべき仕事を終わらせた。だから帰る。あんたは俺と何の関係も無いだろうよ。それに可愛いモナが待ってるんだからな」

それだけ告げて、修理工はアクセルを踏み込んだ。彼の軽トラックは急発進し、あっという間に角を曲がり、ミアのつけ込む隙を完全に遮断して、夜闇の向こうへと消えて行った。

 

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 裏錆びた通りを、ミアは歩いた。彼女は修理工をぶつぶつ毒づいて、するとしばらく歩くうち、比較的大きな通りに出た。帰宅するサラリーマン達が、早足で路を過ぎていった。ということは、深夜に届かず、午後八、九時といったところか。

 

 スマホの電源は、何度押そうが黒い画面のままである。 

 正面から、彼女と同年代のトレンチコート二人組が向かってくる。ミアは冷静を努め、しかし背後に屈辱を噛み締めながら、OL風に尋ねた。

 「―ねえ、ちょっと教えて。ここ、どこよ?」

二人組は互いの顔を一瞬見合わせ、表情筋の下層に嘲笑を溜め込むと、

 「どこって―、前橋ですけれど」

と若く教えた。

 「…何よ、群馬県じゃない!」

ミアの大声に、二人組だけでなく、先を歩くひと達までもが一斉に振り向いた。

 「あの、自販機野郎!」

怒り心頭の彼女は、偶然近くにあった自販機を、思い切り蹴飛ばした。トレンチコートの女二人は、何か恐ろしいものを見たように、歩を早め去っていった。

 

 

 それにしても、喉が乾いている。

 猛り狂う感情の渦と、喉の乾きが、ミアを苦しめた。彼女はいそいそと財布を取り出した。適当にペットボトルを買うつもりである。ところがそこへ、忘れかけていた十円玉一枚、五円玉一枚の事実が彼女に襲いかかった。無銭の彼女は、金を入れずに、あわよくば飲み物が落ちて来まいか願い、幾度も幾度も、自販機の購入ボタンを連打し続けた。―ビクともしない。また、蹴飛ばした。喉が、乾いて乾いて仕様がない。なのにビクともしない。ビクともしてくれない。整然と並ぶペットボトルは、兵士の厳しさで彼女を見下した。

 

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 ミアはへなへなとその場にしゃがみこんだ。万策尽きて、暗い夜空を見上げた。それは先程、修理工の車中で見上げた青空と同じ空だった。どこまでも奔放で、だだっ広い。 

 

 彼女は煙草に火をつける。そして、細く、長い煙を吐いた。

 今日は月曜日だった。

 

                                                                        了