書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

「色眼鏡」第3話(全15話)

   

    藤枝は夢二を辞めずにいた。

 

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 平生を装って、えらく淡々と働いていた。ろくに挨拶せず帰って行く藤枝式もそのままで、せいぜいアリーを目で追いかけるのを自制している位だ。加えて、貸した金だけはキッチリ額面通り返してきたので、桔梗はこの失恋者を見直したといっていい。


  6月は、夢二とオンボロアパートの往復の繰り返しだけで消費されていった。

 

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  何しろ倦怠がひどいので、床に伏すことが多く、おまけ休日ですら全てがボヤボヤ曇っていた。独り、床で休んでいると、下手な先行きの空想ばかりをする。実体の無い未来が相手だから、不安がにょきにょき伸びて、雲間突き抜けるほど、育ってゆくばかりだったのだ。

 


  午後の太陽の下、バスの銀盤乗降ステップは厳しいビカビカ光線で、あたかも乗車を拒むようである。

 

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  反対の降車側を、今しがた手を繋いだ大学生の若い男女が降りて行った。車内には午前混雑時の余韻が残っていた。

   すべての輪郭がくっきり鮮やかだった。乗車するとそれは、尚のこと色合いが増したようだった。

   走行距離と比例し、桔梗は自分が気鬱から段々と離れて行くように感じていた。あのジメジメ不安視の生活が、風景と共に、1つ1つ、背後へと流れ去ってゆく。

 

  蚤の市へは数ヶ月ぶりだった。あの雑然とした、安価で、けれど特別な何かに出会える宝島には、きっと露天商達の笑顔が咲きほこっている。

 

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   不確定の午後に、それは明るく灯って桔梗を待ち受けていた。当の本人はバスに揺られ、このひと月について考えを掘り下げ、尚且つ分析を続ける作業に暗く熱中してしまっていた。

 


   ー疲れた。ー無力だ。

   ー曖昧模糊の宙ぶらりん。
   ー宙ぶらりんは不安だ。

   ー漠と、不安だ。
    ー人が怖い。漠と怖い。

   ー漠と生きている。漠と死にたい。              

 

   漠と死のうか。...

 

(第4話へつづく)

「色眼鏡」第2話(全15話)

   こんな婆が大家であるから、自らこのアパートに住もうという、気概ある勇敢の徒などはまずおらず、たまの物好きが新しく住まうものの、その忍耐が持続するのはせいぜい半年、1年もすると皆こぞって去ってゆく。

 

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   故に現在もこのオンボロアパートの世話になっているのは、101号室の親子、201号室の桔梗、203号室のジョアンナ・クラール、たったこの3組であり、3組ともに倹約生活を余儀なくされているのだった。安家賃の誘惑とを天秤に掛け、結果渋々、婆さんのヒステリー、猛禽類の圧政に耐えることを選んだ覚悟者達である。各々、自分なりの老婆回避策を練っており、例えば203号室のジョアンナ・クラールなど、カタコトの日本語しか話せない振りをするのだから、大いに有利と言える。

 

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   午後1時頃から出掛ける予定である。廻田で蚤の市があるのだ。ぶらぶら散策がてら掘り出し物を探しに行こうと計画している。
  


   寝坊の日曜を返上し、忙しい朝をやり過ごさねばならなかったが悪いものではなかった。洗濯機を回している間に、階下で大家対サッチャンの口喧嘩が、派手に勃発したというわけだ。

 

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  ラジオをつけた。賑々しい会話が繰り広げられている。

  明日から広がる青空だの都内にオープンしたての、ビアガーデンだのプレミアムフライデーだのクールビズだの、総じて上機嫌だ。つまり夏は、もう間近に迫っていた。
  未だ気象予報士達はつゆ明け宣言を喉にしまいこんでいたが、空は躊躇なく晴れを謳い、陽射しは既に夏色をときめかせていた。

 

   耳に響きが足りない。
  長いつゆの間、人と関わること消極的になって、先日の、書店仲間どうしによる恋愛騒動があってからは尚更で、体調不良が続いた。

 

   彼女は重い倦怠と、毎晩の知恵熱に悩まされる日々を送っていたのである。

 

(第3話につづく)

「色眼鏡」第1話(全15話)

「何て子だろうね、アンタは!」

  台所の小窓から、大家の怒鳴り声が不意に飛び込んで来た。

 

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  それは停滞しきった正午の近隣に、似つかわしく無かった。子供を叱り付けている。猛禽類の金切声が、土曜日を引きちぎるようだ。桔梗は両耳を塞ぎたいくらいだった。

 

 「手をお出しよ、あたしゃ奇天烈の次に嘘つきが大の大キライなんだ。そんなに言い張るんなら、アンタ左手を開いて、見せてごらんよ。あたしゃねえ、とっくのとうに承知だよ、アンタは盗みを働いたのさ。親が成ってないとこうも酷いモンかねえ!」

 

   ーまた始まった。

   桔梗は赤いマグカップにコーヒーを手に持ったまま六畳間に移ると、わずかカーテンを開き、隙間から婆さんと子供の言い争う姿をコッソリ覗き見した。

 

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  子供はと言うと、サッチャンであった。サッチャン、と言う呼び名だけが桔梗の知るところで、元が幸子なのか、小百合なのか、紗耶香なのか、若しくは今風の、少し洒落た外国風なのか。兎も角サッチャンは階下の101号室に住む家族の子である。

   母娘二人の暮らしだが、時折母親に男が出来て、泊まったり出て行ったりする。それが亭主なのかもしれないが、婆さんから見るとえらくフシダラに映るようだ。

 

   その為、母親に対しては、何かとキツい物言いで、アレヤコレヤ文句をつける。   

   すると相手は気弱らしく、その都度、すみません、すみません、以後気をつけます、と繰り返し詫びて、青ざめた首のまま、しんと101号室に消えてゆく。

 

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  サッチャンは、婆さんの家のグミの木から、また実をもぎ取り食ったらしい。      

 

   少女は学校を終えアパートに着くと、日常的にグミの実をもいで口にしていた。桔梗はそのランドセル姿を何度も目撃している。日頃から腹を減らしているようで、幼さ故に、手近な食の誘惑には到底我慢かなわぬのだ。

 

   気の強いところがあって、時々生意気な口を利く。それが尚更婆さんを苛立たせる。一向に強情を張り続けるので、業を煮やした婆は、手にしていた新聞紙で少女の頭をビシャリとやった。すると子供は子供で心得があり、

   「ぶった!おばあさん、あたしをぶった!大人がぼうりょくした!痛い痛い、痛いよう!」

と近所中に聞こえるよう、わざわざ大きな声で騒立て応戦する。

 

 

(第2話へつづく)

 

「伝書鳩よ、夜へ」最終話(全19話)

   階下の大家宅には、未だに灯りが点いている。

 

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  婆さんは起きているのか寝ているのか。喚き散らすテレビだけ饒舌の上機嫌、小言とお節介の婆さんについて、それ以外を桔梗は知らない。

 

  兎に角、抜き足差し足だ。
  気取られぬよう窓の脇を通過すると、そこは申し訳程度の玄関である。桔梗は、緊張した面持ちでポケットの茶封筒を音無く取り出すと、それを婆さん宅の郵便箱に、そっと、見送るように投函した。

 

   まさに、恋の葬送だった。厳かな儀式を執り行っている。 

   桔梗は、郵便箱に落ちる封筒が、コトリと果てたのを聞いた。そうして夜に、静けさに消えていった。婆さん宅のテレビだけが、下卑た笑いで騒いでいる。

 

   こうして桔梗は、役目を終えた。


   それから後のことは、記憶にない。

   必死に六畳間を目指し、飲むべき薬を飲み、布団へ滑り込むと、そのままグースカ寝てしまったらしい。疲れ果てていた事実だけ、思い出せる。

 

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   翌朝、窓の外はいつもと代わり映えしない梅雨空であった。

   けれど、今朝という朝には、もう藤枝の恋は存命しなかった。単純明快の茶封筒が、伝書鳩の夜にひっそりと葬られた事も、決して公言してはならないのだった。

 

   桔梗は寝不足の眼をゴシゴシこすり、何時ものように台所へ赴くと、ラジオを付け、コーヒーを淹れた。陽気にジャズが流れている。  

   桔梗はちょっとの間、考え事した。タイ粥やら図書館で次に借りる本、ハーマンの小部屋の匂いについて考えた。1日の心構えについてもイチイチ考え、少しは何とかやって行けそうな気分を得たことに充足すると、何時も通り、日めくりカレンダーを勢い良くビリリとやった。

 

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   6月23日、土曜日の登場である。出勤まで少しばかり時間があった。

   キッチンでコーヒーを啜る時、この台所が、新しい1日の台所である事が、奇妙な程に桔梗をホッとさせる。困惑も、疲れも不安も、日付けの境に仕切られ、それを飛び越えてまで、彼女を追いかけ捕まえることは出来ない。

 

   平和な朝だった。日付けの数字が22から23に変更された事実に護られ、護られた今朝は、暢気であった。

 

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   近くの電線に座る鳩が、ぐるると喉を鳴らし、歌っている。彼らも又、この朝における暢気者だろうか。ぐるるぐるる、新しい旋律が歌われ始めていた。

  

  街の、あらゆる場所で、かつての記憶は喪われようとしていた。いくら藤枝と言えど、きっといつかは失恋の痛手、不様な酩酊を忘れるだろう。アリーは愛における疑念を、桔梗は不安と抑うつを、だんだんに忘れ、だんだんに見失ってゆく。どこかの夜に、葬られてしまうのだ。

   そして、まるで本物の暢気者にでもなったかのように振舞い、また失い、後はもう前しか見えないような人間のお面を被り、また、笑っていなければならないのだった。

 

(了)

「伝書鳩よ、夜へ」第18話(全19話)

  封筒の表に、宛名は書かれておらず、裏面を返すと、そこには蟻の行列にしか見えない縮まり切った筆跡で、差出人「藤枝和志」のみが明記されている。桔梗は疲れた頭をクラクラさせた。

 

 

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  一体これを自分はどうすると言うのだろう。

 

  藤枝は、とっくに恋敗れたのだ。又、アリーは既に二十上の医者の愛人になっており、本当の愛と信じ求め彷徨う迷い子だ。そして恋の魔力を失ったこの茶封筒は、もはや単純明快でなく、分厚さの意味合いも無く、何より、開封する権利ある読み手がもう存在しないのだ。これは、味気なくシンとして、ただ、墓場を求める茶封筒なのだった。

 

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   桔梗の疲労はピークに達していた。もう今すぐここに布団を敷いて逃げ込みたい。なのにそうも出来ずいるのはやはり、律儀の性分と、弱者ゆえの人助け精神からだった。もしくは単なる同情かもしれない。

理由はどうにしろ、桔梗は、自分が出来得る限りの範囲で、惨めな思いをして傷付いた藤枝のプライドを、何とか少しは守るくらいはしてやりたかった。

 

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  …そんなら、ひとつ墓場へ届けてやろう。私は伝書鳩の役なのだから。

 


  桔梗には、ある妙案があった。この恋封筒には、アリーの宛名も住所も郵便番号も無い。又、藤枝の住所等も然りである。つまりは例え第三者の手で開封されたとしても、どこの誰がどうこの手紙をしたためたかについて、全く判別されず済むという利点があるのだ。そして桔梗は、この利点に叶う、茶封筒うってつけの墓場を、既に見つけてしまっていたのだった。

 

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茶封筒をデニムのポケットにしまい、抜き足差し足、錆び付いた階段をくだった。これには細心の注意を払わねばならない。ある意味、極秘ミッションである。最大限の注意深さが必要だ。しくじれば、布団に辿り着くまで、また更なる時間がかかってしまうのだ。

 

(次回最終話へとつづく)

「伝書鳩よ、夜へ」第17話(全19話)

  もう、嫌になった桔梗だから、ますます布団をひっ被ってグーグー眠りたかった。明日が投げかけて来る、無遠慮な視線が怖いから、気付かぬ振りして眠りたい。

 

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   藤枝はきっと、アリーと、二十も離れた恋人である例の医者、彼らが紡ぐ愛の現場を偶然どこかで目撃したのに相違なかった。何とも気の毒な話だ。あんな調子では当分立ち直れまいし、もしかすると夢二を辞めてしまう可能性も、否めないのだった。油汗の恋は、油汗の宿命により、最後は藤枝を冷んやりさせて終息したと言うわけだ。


   オンボロアパートに着いた時、一階の大家宅には灯りがまだついていた。春子婆さんは朝が早いくせに、その一方、概して夜型である。部屋は煌々と照り、テレビのガヤガヤが、わずかな窓の隙間から漏れ聞こえていた。何の番組なのか、猿山のようにけたたましい笑い声が、どうやら婆さんの部屋に響き渡っている。

 

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   バカ笑いのテレビに嫌悪を感じつつも、お陰で遅い帰宅が婆さんに気づかれることも無さそうなので、タイミングに恵まれた事を桔梗は喜んだ。スーッと横切り、スーッと階段を上がった。

   自宅ドア前に立った時、丸1日続く、このめくるめく出来事の連鎖からようやく解放される事を知って、桔梗は深く、長いため息をついたのだった。

 

   さて、鍵はどこだったか。

 

   バックパックの中をゴソゴソ手探った。鍵、鍵、鍵…そう小さく呟いて探すうち、桔梗の右手は、鍵ではなく、いつもの所持品外と思われる物体を探り当てたのだった。小首を傾げ、その触り慣れぬ何かを、ゴチャゴチャの荷物の混乱からむんずと引っ張り出すと、それはどうやら封筒のようであった。

 

   3センチ程も厚みのある、やけにずっしり重い、そのくせ全く平々凡々の茶封筒、単純明快の茶封筒…

  

 しまった!忘れていた!

 

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  危うく大声をあげそうになって、慌てて言葉を呑み込んだ。手にしていたのは藤枝の恋文、スッカリ存在を忘れ去られた茶封筒だった。不機嫌顔で桔梗の手の平に乗っかるそれは、未だ届けられぬことを恨んだ様子で、じっとこちらを見ているのだ。

 

(第18話へつづく)

「伝書鳩よ、夜へ」第16話(全19話)

  むしろアリーのほうを案じて、桔梗は訊いた。

 

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   「アリーさんは、あんな事をするひとじゃなかったのに」

   「アリーと何かあったの?」

だんだん苛々して来た。藤枝は首を左右に振った。

  「オレは、何にもしちゃない。でもアリーさんが、あの清楚なアリーさんがあんなオヤジと、あんなイチャイチャを車中するなんて、あんまりだ。酷いじゃないですか、あんまりだ、アリーさん。ああ、アリーさん!あんまりにも程がありますよ!アリーさん、ああ、オレのアリーさん!」

言い終えるなり藤枝は大声で泣き始めた。

 

  通る人が全員、好奇の目でコチラを見ている。焦って藤枝を制したが、泥酔の酔っ払い相手ではラチがあかない。彼はそれこそ赤ン坊のように、ウワーンと泣き、そしてこのウワーンが一向に止まないのだ。

   

 「ちょっと、ちょっと!藤枝君。頼むからさ、そんな泣かないでよ。皆が見てるじゃん。恥ずかしいから、大音量で泣くの止めてよう。お願いだよ」

 

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  丁度タクシーが通り向こうに見えた。桔梗はもうこうとなったら大慌てで手を挙げた。これ以上、巻き込まれるのも足止めされるのも御免だった。やって来たタクシーに藤枝を押し込むと、なけなしの五千円札を藤枝に握らせ、

   「必ず返してよ。これ私の明日以降の生活費なんだから。絶対だよ。知ってると思うけど、私は家賃払うので精一杯なんだから」

返ってくるまいと思いつつも、念を押した。

 

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  かろうじて自分の家の住所は言えたので、もう全て運転手に丸投げし、藤枝をタクシーに押し込んだ。そして足早にその場を去った。


   何て長い1日だ。

   くたくただ。早く帰ろう。もうじっと身じろぎもせず眠りたい。疲れたんだ。

 

( 第17話へつづく)