書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

「伝書鳩よ、夜へ」第2話

    下手な気遣いにヘソを曲げた藤枝は、本日も無言を通す気でいるらしかった。

 

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  返す返事には、プライドを傷つけられたことへの憤怒が色濃く滲み出て、気まずいこの雰囲気に彼女はスッカリ神経を削らせてしまった。


  ー午前中からこの調子だ。あんまりじゃないか。


  それは耐え難い下り坂の二時間半であった。昼休憩が近づく頃には疲弊が顔に出て、蒼いくまが両眼下に腰を据え、肩は落ち、自身の困憊を認めるたび、恨めしい目つきでそれを眺めた。

 

 


  午前の売り上げ金を計算した。集計をようやく終えた頃、閉ざされた奥の小部屋のドアが、ギギ、ギギ、と鈍く軋んでわずかに開いた。

  その隙間から、常に変わらぬ上機嫌に顔を輝かせ、店主ハーマン・アトソンがヒョコッと顔を突き出し、気付けば桔梗に手招きしている。

 

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   彼のオフィスにはいつも柑橘類の良い匂いが漂っていた。ジャズがかかっている。

   壁じゅうにメモやらFAX用紙やらバースデイカードやらクリスマスカードやら、膨大な量の紙物が、四方八方、鋲で打たれている。文字という文字が氾濫し、居るだけでぐるぐる目が回る。

 


   常日頃から小部屋に籠りっきりの店主ハーマンは、日に何度か、コーヒーのおつかいに店員を遣った。大抵桔梗が係である。

 

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  「****にエスプレッソショット二杯追加、ホイップクリーム多めでトッピングはココナッツフレークで頼むよ。あと今日はソイミルクは止めにして、アーモンドミルクがいいから、キキ、そこだけ間違わないでおくれ。あまり熱いのは好きじゃないから、六十度くらいで。じゃあ、はい、お金。お釣りはいつも通りレジ横の貯金箱にだよ」

 

  歌うように伝えると、桔梗の手に小銭を滑り入らせた。

  そしてまたドアを軋ませ、氾濫の小部屋へと消えてしまった。

 

                         (第3話へつづく)

「伝書鳩よ、夜へ」第1話

   五月の終わりから次第天候は曇りがちで、ハラハラ小雨の降る事があった。止んだり降ったりしていたが、六月に入ると毎日傘が要るようになった。空気がだんだんに重くジットリし始めて、まるでそういう肌着を一枚余計に纏って暮らしているような気分であった。

 

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   六月六日の天気予報で正式に梅雨入りが発表されると、桔梗は打ち首の決まった江戸の罪人のように途端気力が湧かなくなって、入りの六日以降、意欲の低下に日々うつうつとしていた。

 

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  桔梗の勤める円南町の輸入古書店・Books Yumeji にとっても梅雨は嫌な時季であった。

   店主ハーマン・アトソンが奥の小部屋に籠りっきりで膨大な仕事量をこなす中、桔梗ら四人の店員は、どちらかというと力仕事を任される。殊に去年の夏から階段の踊り場に積み上げっぱなしにしていた古書を、どうにかして店内に入れ込まなければならず、毎年梅雨が来るたび、この大作業に四人は頭を抱えるのである。

 

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   主に桔梗と大学生の藤枝和志が早番、キムとアリーは遅番で働くことが多かった。今年は無口で対人恐怖症でインテリの藤枝がこれを概ね引き受ける事で話がまとまり、おかげで桔梗は気楽だった。

 

   藤枝も口を利かず済む事がどうやら気楽らしかった。ある日出勤すると、早速この積み上げられた本のタワーをせっせと崩している。

 

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   普段、挨拶どころか目も合わさないくせに、桔梗さんおはようございます、今日は珍しく時間通りですね。桔梗さんの分のコーヒー、置いてありますよ。などと皮肉と更にコーヒーのオマケつき、笑顔まで見せた。

  桔梗は気味の悪さ半分、心配半分で、藤枝君、転んで後頭部を打ったとか、頚椎の骨を折ったとか、変な宗教に入信とか、してないよね?と思わず訊ねてしまっていた。

 

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   これが良くなかった。藤枝の笑顔はサーッと消え、またも無言の無表情、またも対人恐怖の殻に閉じこもってしまった。けれど黙々と本の整理運搬には励むので、結局桔梗が気楽であることには変わりなかった。

 

 

   遅番にキムが来る日と、アリーが来る日で藤枝の態度は違った。

 

  前者キムの場合は緊張に緊張、アリーとなるとデレデレである。

   随分前から好いているのだ。

 

                           (第2話につづく)

「廻田の雨降り」最終話

   しばらくすると、商店街が姿を現わす。

 

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   昔からの学生向け古書店が軒を並べ、定食屋なども多い。ヴィンテージ品を売る店もまた連なって、新旧織り交ぜの店々がそれぞれの商売に勤しむ。何と無くざっくばらんで、うるさくない。

   お客達はみな、遠慮の無い買い物を楽しんでいるようだった。老店主の営む風鈴屋があり、風鈴のチリンが鳴り、桔梗が隣の古着屋の軒にぶら下がった、水玉模様のワンピースに目を留めた、丁度その時だ。

 

  「ーあ、雨」

 

 誰かが言った。その一言に思わず空を仰いだ。すると点眼薬みたいに、大きな雨粒が右目にピシャと落ちて、桔梗の視界は一瞬揺らいだのだった。

  「ああ、雨だ」

  「雨だわ」

  「おい、雨が降ってきた」

 

   道行く人が次々呟いた。そしてそれを合図に、街は一斉に早まった。…あちこちで開く傘の華。古書店の店主達は本棚をいそいそとしまって、古着屋のアルバイトが大急ぎで洋服にビニールを被せ、雨模様にくちを尖らせている。洋傘店の主人だけはご機嫌、赤に青、花柄しま柄格子柄、色取り取りの傘を、ここぞとばかり軒へと並び飾って満足そうである。

   人々は大急ぎで駆けて行く。桔梗に傘の持ち合わせはなく、まだずいぶん続く新銅カ窪までの道を、ココナッツ号をすっ飛ばし走らねばならない。舗道の端には学ラン運動服たちの姿。鞄で雨を避け歩いていたが、もう観念したのか彼らだけが呑気に濡れて歩いている。

 

  ー実にいい。疾風の如く走ってやろう。

 

  そのいたずらっぽい思いつきに、桔梗の胸は高鳴った。降りしきる雨下を、サアアーッとココナッツ号を走らせる。そうして漕ぎ続けた時、桔梗は自分が微笑んでいることに気付いたのだった。雨が服をどっぷり濡らしていた。鞄の中身もずぶ濡れのようで、桔梗はどうしてかその事も愉快だった。

 

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   桔梗を乗せたココナッツ号は鮮やかな車轍を次々描き、雨の街を駆け抜けてゆく。

 


  ...途中、アパートに近付く頃、大通りでジェラート屋のワゴンを見かけた。信号の向こうを、大慌てで走っている。桔梗は雨の向こうへと急ぎ遠ざかってゆくワゴンの後ろ姿を、しばし見つめ、見送ったあと、何か苦役を解放された人のように、ゆっくりとひとつ、瞬いてみせた。

   

   桔梗は雨降りの舗道を再び漕ぎ出すと、もう何やらスッカリ、冒険映画の主人公のような気分で勇敢なのだった。

 

  ......もうまもなく、新銅カ窪の赤い駅舎が、雨の向こう側に見えてくるだろう。

                                         (了)

「廻田の雨降り」第15話

  「どうです。いかがしましょう」

   出だし威勢が良い。桔梗は迷った。悩むうち、がんじがらめになったわけだが、ジェラート屋はと言うと、これが身じろぎもせず、銅像の体で注文を待っているのである。指先すら動かそうとしない。

 

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   抹茶味を選んだ。相手はニッ、とただ口だけ笑ってみせた。

  注文を受けてからのジェラート屋は手際良かった。無駄の一切が削ぎ落とされた動線を描いた。

 

    ヒンヤリ濃緑色のジェラートが、何層もコテで盛られていく。滑らかそうな表面は、桔梗を夢見心地にさせる。だんだんに汗をかき始め、つやつやはなお一層である。このあと口中に広がるであろう、甘く冷たいとろみを思った時、見惚れずに待つ事など出来はしないのである。

 

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   店主の腕がヌッと伸びた。繊細な絹のジェラートが手渡されると、それはツカーンと桔梗の手のひらを冷え冷えと満たし、憂鬱の心地を慰めた。

 

 

   また、ヌボゥヌボゥ漕いだ。

   夕餉の買い物をする人がちらほら、食糧を求め八百屋やらスーパーやら惣菜店に出向いている。

   急に歳をとった気分で、妙な居心地の悪さを持て余した。

 

   この辺りには中学校が二三、点在した。

   下校する学ラン服や運動着が、年老いた気分の桔梗と共に道を進む。彼らはどうやら、ちょっとは授業から解放されて、ひょうきんに振る舞いたいらしかった。肩掛けカバンを頭のテッペンから提げたり、歩幅を狭めちょこまか歩いて見せる者もある。

 

 

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   たわいのない遊びに興じる彼らの姿を横目に捉えながら、ペダルを漕ぎ、やっと一駅分を走行したのだった。

 

 

   ここら辺はまだ廻田の東で、あともう一駅を行けば新銅カ窪の駅舍が見えてくる。

                              (最終話へつづく)

「廻田の雨降り」第14話

 

  半ばヤケッパチで放った桔梗の言葉を、湘子は勘違いして薬依存の克服の気概と受け取ったようだった。

 

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   肩をポンポン叩き励ますものだから、反駁するにもできず仕舞で、桔梗は笑顔の湘子に見送られてカフェNo.33を後にすることになってしまった。

 

    ーへんな一日になった。

   良いんだか悪いんだか。白・黒、足して割ってグレー、しかしグレー は不安だ。

 

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  家を出た時に燦々と照り注いでいたあの太陽は、もうとうに不在であった。空は息詰まったように曇っている。レゲエとアイスコーヒー、そうはしゃいだ正午が、もう十年の昔のようである。

  唯一ココナッツ号だけが、変わらぬ涼しさで桔梗を待っていた。

 

  ト、と息をつく。そして漕ぎ出した。    

  廻田から自宅までの道は、往路抱いた心地とは比べ物にならない。つまらない。味気ない。ただ曇って、ただ灰色に、ただ落胆に。

    肩を落とし、ヌボゥヌボゥとペダルを漕いでゆくよりない。

 

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  梅雨を前に、路のあちこちから土の温気が漂っている。むせかえるような温気と、新芽の緑色の瞬き合いに圧倒された桔梗は、軽い目眩を憶えてくらりとした。その緑の舗道を、ココナッツ号はゆっくり、ヌボゥヌボゥのままに遅々と進み行く。

 

 

   こう蝸牛の速度で漕いでいると、街行く人々もまた、緩慢に動いて見えてくるのだから不思議である。

 

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   午後四時の廻田、住まいの新銅カ窪までの道程には、油断のような隙が所々にあった。誰もが中途の時間を止む無くやり過ごしているようにも見えた。勢い溢れるは萌え出ずる緑ばかり、店々の軒では、呑気に休む老人などがいた。

 

   桔梗は、ふとココナッツ号を停めた。

   ジェラート屋のワゴンが、道先に停車している。

                                 (第15話へつづく)

「廻田の雨降り」第13話

   蜜月みたいな読書時間を、過ごすはずだった。

 

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  ところがろくでもないのである。ああ、馬鹿だ、馬鹿だ。馬鹿な読書だ。馬鹿な神経だ。

   桔梗は厳しい表情でさらに考えた。暗い考えばかりがこんこんと湧き始めた。

 

 

   ....この読書が無駄になったとすると、その後、自分はどうなってしまうのだろう。

 

  実のところ、桔梗はこの点が不安なのだった。律儀の読書を遂げなかったことが、何か、不幸のような、破滅のようなものを運んでくるように感じた。周りのお客達がわーッと盛り上がり、彼らの明るさが明るいほど、彼女は暗かった。たった、一人だった。

 

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  律儀は危険だ。いくら識っていようと、思えてしまう。茶番だと笑いとばすことも出来ない。

   苛立ちを「視た」。

   それが全ての起点だった。何やら事情がごろごろ坂を下り変化していった。もう周囲のお客たちが不平不満話を繰り広げれば、それがまるで関係のない自分についての不平不満のように感ぜられて、また彼らが笑えば、それは不甲斐ない自分を識った彼らの嘲笑う所と思えてしまう。ー周囲の視線も気になる。自分の見てくれが変でないか、いやに気になり出した。頬杖をついたり、髪の毛をいじったりした。

 

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  燻っている。

 

  今日も結局痩せこけた。コーヒーの高揚はとっくに遠のいて、駄目だ駄目だと誰かが喚いている。

 

   三十分ほど落ち込んだ。

   ようやくアパートへ戻る決心がついて、湘子が、随分ひどいようだが大丈夫なのか、デパス(抗不安薬)は飲まずにいて辛くないか訊いた。

 

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  「デパス飲んでも同じ、同じですよ湘子さん。何も変わっちゃくれない」

ガッカリの勢いで言うと、湘子の心配顔は一転、思いがけず明るくなった。

 

                        (第14話へつづく)

 

 

   

「廻田の雨降り」第12話

    徐々に客の入りが増えて、カフェNo.33はようやく稼働らしい稼働を始めた。

 

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   時刻は午後三時、おしゃべり目的の近隣の主婦一群が現れたのを皮切りに、大学生、アルバイト前のフリーターなど比較的若い世代が来店、このあたりはノートを広げるか週刊誌を広げるかした。

 

   さらには中高年のダンスサークル仲間あたりも和気あいあいと登場し、四時が近付く頃には出勤前のホステスもチラホラと増え、しかしながら香水の匂いが過ぎると、湘子にキッパリ入店を断られてしまうのだった。ー店内の煙草は許せど香水許すまじ。三千雄共々そう唱っているのである。

 

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  あっという間に老若男女ごった煮のスープボウルとなった。

 

  No.33は稀に見る混雑ぶりを遂げていた。向かいのテーブル、横のテーブルと順々埋まり、やがては桔梗を囲うようにしてお客達が座していた。

   誰もが賑々しく笑い、談笑の混声大合唱団と化し上機嫌だった。桔梗の神経にはこれがどうも堪えた。

 

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  本への集中は削がれ、初めはほんの軽い苛立ちのような程度であった。

  むろん、苛立ちはこのお客達に向けてではない。これは律儀の読書を成せない、ただ自分自身への苛立ちである。

 

  桔梗はもはや読み進められず「パリの胃袋」を閉じることを悔やみ、表紙のゾラの写真を恨めしい目つきで見つめまた悔やむのだった。

 

   ーこのままではようやく読むを可能にした、せっかくの時間が無駄になってしまう。

 

                             (第13話へつづく)