書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

「あなたは最高」第12話(全20話)

   店内は独特の臭気を漂わせていた。

 

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  ハーマンのオフィス、柑橘類とコーヒーの香りを、桔梗は懐かしく思う。2人並んでプラプラ見て廻るが、何ら興味惹かれるものは無い。2階へも上がってみたが、売り物の全てが建物と呼応し、えらく昔風で、キムはもう飽き飽きと言わんばかりである。

    2階の婦人服売り場の横手に、喫茶店があるのを見つけた。
   揃ってコーヒー中毒である。バスの発車時刻まで、しばしの休憩をここで取ることに、双方異存なかった。


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   ロジェール、という喫茶室らしい。

   客はちらほらあった。店内喫煙可、どのテーブルにも灰皿とライターが慎ましやかに座しており、お客達はプカプカ吹かしていた。カビ臭さの上に煙の匂いが重なり、二曹構造の匂いに辟易した桔梗はますますハーマンのオフィスを懐かしまずには居られなかった。

   キムは煙草を呑んだ。ー構わない? 最初そう聞かれたので、別に構わない、と答えた。彼女の口から、紫色の煙が漏れた。桔梗はメニュー表を開いた。数カ所にシミが付いている。

 

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   どれを取ってもやけに安値である。
   例えば大盛りハヤシライスはスープとサラダ、コーヒー付きで500円である。大盛りナポリタン、大盛りチキンライスはフルーツ盛り合わせが付いてそれでも550円、大盛りポテトサラダに大盛りチーズピザ、大盛りデザートセット3種…そんな具合であるから、これで果たして採算がつくものか。

   2人共コーヒーを注文した。



   店員達は皆、外国語を話していた。タガログ語かと思われる。彼らは冗談を飛ばし合い、大仰な笑い声がその都度沸き上がった。

 


(第13話へつづく)

 

「あなたは最高」第11話(全20話)

   タラコ色の電車は、急に速度を増して走り始めていた。トットコ走ること30分、S市駅に到着した。



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   駅で降りる乗客は殆ど無かった。

  平日の昼である。閑散としきって、腰の曲がった老人が歩調ゆっくり去って行くともう、人影の一切が消えた。
  キムと桔梗だけが取り残され、四方八方の木蔭から、油蟬の大合唱が百人の赤子の鳴き声と等しい賑々しさで、冒険者達を出迎えていた。

 

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  「凄いわね、なんて言うのかしら、こんな蝉だらけじゃきっと毎夏中耳炎に罹るでしょうよ」

時計を見遣る。

  「シャトルバスの時間、見ておこうじゃないの」

  キムは桔梗を従え改札を出た。後に続く彼女は、呆れるほど命を叫ぶ、この蝉どもの声に圧倒され、息苦しい。ここを気に入らない様子でいる友人にも圧迫されている。

 

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   シャトルバスは1時間に1本間隔である。運悪くたった今、行ってしまったばかりだった。

   雨風に打たれ、汚れを被った運行表。灰色顏は、次の午後4時の発車を告げていた。

   キムは大袈裟に溜息をついた。
   何も無いバスロータリーで、途方にくれる羽目となってしまったのだった。
 
   バス停の裏手に、うらぶれた、それこそ昭和の昔から建っているような2階建てのスーパーあった。

 

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  入ろう、と桔梗がいうと、キムの方が気乗りしない。だがこの盛夏の暑さと陽射しには根負けして、一時しのぎにドアをくぐったのだった。

 

  ーああ、サイテー。サイテーだわ。

  キムはブツブツ言った。

 

 

(第12話へつづく)

「あなたは最高」第10話(全20話)

  キムへの共感は、桔梗の律儀のお人好し精神に火を灯す格好の燃料となった。

 

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   敏感な神経症の胸は熱くなる。唯一彼女が積極性を発揮する機会でもある。お節介を使命感と勘違いし、さあ頑張ろう、人肌脱ごうかなどと思い始めてしまった。


  藤枝の茶封筒のとき同様、まっしぐらに、やみくもになって言うのである。

  「…キム、キム! 今日はサッサと用事を済ませて、S市観光でもして帰ろうか」

 

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   相手はポカンとした表情になった。

  「何よ、急に。どうしたの?」

呆れ顔である。

  「観光名所なんてないわよ。調べたじゃない、中途半端に開けた中途半端の地方都市よ。何が、観光よ」

キムは眉宇をひそめたが、おかまいなしに桔梗は胸を張り、

  「つまりは、冒険だよ。これは受け取り方の問題だよ」

キムはますます分からない、と言った様子で肩をすくめてみせた。

   まるで小学生じゃない。一体いくつのつもりなのよ。ただモールに行くだけのことじゃない...非難がましく聞こえそうな台詞が、幾ばくかの朗らかを願い憧れている。キムは扇風機の凝視をわずか止め、車窓の向こうに広がる夏空を眺めた。

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   ーこの古風なタラコ色の列車、これに揺られた暁には、きっと思いがけない冒険が待ち受けているんだ。

   自らの言葉に、桔梗は胸を躍らせている。何か、目に見えぬ高揚が手ぐすね引いて呼び寄せているようにも思えた。

  

  キムの言うように、S市は中規模の地方都市であり、車社会の街であり、店々は新銅ヵ窪や廻田町のように、洒落てはいなかった。観光地とはいい難い。ひたすら、ベッドタウンであり続けている。

   便宜は効くようだ。家族世帯の生活様式に見合う街並みである。キムや桔梗のような単身者向きでは、決してなさそうだ。2人はまったくの部外者だった。

 


(第11話へつづく)

「あなたは最高」第9話(全20話)

    自らのぶ厚い皮下脂肪が災いし、人並み以上にこの暑さが堪えるらしい。しばらくはただ、暑い暑いと繰り返した。

 

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  ぼやき続け、愚痴り続ける。彼女は親友・アリーのことさえ、悪く言った。    

   その都度同意を求められても、困った。桔梗は段々面倒になってきたが、辛抱強く聞いた。間も無くしてキムの電話が唸った。ボヤキの環は切り落とされ、一時的に収束した。

   列車は、K駅で停車中である。
   車掌の鼻濁音が、踏切点検による遅延を知らせ謝罪した。キムの電話は、この停留中に、車中のみならず、まばらな駅ホームをも震撼させたのである。

  
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  キムは発信者名を一瞥するなり、眼球をぐるぐる回し、不快を露わにした。    
 
  呼び出し音は鳴り続いた。執念深かった。列車が再発車する頃にやっと止まった。静けさがどっと車中に雪崩れ込んで来た。もとあった静けさ以上の静けさが広がりを見せ、何か、不可避の、困難のような生き物が、新たに乗車してしまったような感覚を桔梗は憶えた。キムはじっと口をつぐんで、ただ天井に吊るされた年代物の扇風機を、睨みつけている。

 
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  つまりあの鳴り止まぬ電話の主は、例の恋人であった。彼は浮気を弁解し、説明するため、執拗にかけて来るようだった。

   (一体全体、どこへ居場所を見つけろと言うのだろうか。奪われ、汚され、新たな恋の犠牲者として、キムは破棄されたんだ。殉死じゃないか。一体どこの誰が、どんな顔でキムを励ませたものか…)

 

(第10話へつづく)


   

「あなたは最高」第8話(全20話)

   (前回までのあらすじ)

店主ハーマンの指示を受け、S市まで出向くことになったキムと桔梗。2人は互い、苦手意識を持つ同士である。桔梗は辟易し、すでに疲労感に参っていた。....

 

 

 

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  ガタゴト揺らされ、しかし二人に交わされる言葉は無い。居心地の悪さだけが、両者の間に色濃く滲んでいた。      
   列車の振動は、途切れることなく気まずさをお膳立するのであった。

 

   T線へ乗車した。

   2人は急行列車の発車時刻にギリギリ間に合った。

 

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   S市駅はT線の終点から3つ手前と遠い。急行ではたったの4駅でついてしまうほどの手近さだった。拍子抜けしたが、桔梗は命拾いをした心地で、深々座席に背もたれた。

   キムは相変わらず、何とはない一言を時々紡ぎ、やはり時々、桔梗を見遣った。桔梗はというと、ビクビクご機嫌伺いでこっそりキムを見遣る。

 

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   見遣りのタイミングの妙か、あるとき一瞬、互いを捉えた。偶然出会った目ー、もしかしたらこのようにしっかり、互いの目と目が合ったのは、出会って以来、もしかしたら数年の付き合いに於いて初めてのことかもしれなかった。

  「暑いったらありゃしないわね」

またそう言う。だがそこには、これまでの響きとは異なって、なにか、待ち侘びていたような親密さが含まれていた。

  「そうだね」

桔梗はぎこちない、しかし同様の親しみを込めた笑みを返した。すると、キムは、急に打ち解けた様子を見せて、どうやらそれは独り言もどきのつぶやきが、ようやく不在だった聞き手を捉えたと言わんばかりであった。

 

(第9話へつづく)

 

 

「あなたは最高」第7話(全20話)

  「なんだ。案外、シンプルじゃない。もっとややこしい場所かと思ったわ」

 

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   乗車して座席に腰掛けると、キムはぐっと伸びをした。大柄な体躯がさらに肥えて見える。上背もあるから、伸びをするだけで迫力に満ちている。

 

  おずおず隣に座した桔梗は、相手の顔色をチラチラ伺った。そして自らの怯えに、砂を噛むような、情けなさと嫌悪を覚えるのだった。

   萎縮、かなぐり捨てること叶わぬ臆病仮面。どんなに憎み嫌悪しようと、自分は「生涯交換不可能の自分」であった。そのことが虚しいのだ。

 

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   S市駅までは片道1時間半の行程である。

  日暮里駅を経由し、ローカル線に乗り換え、S市駅下車後は、調べた通りモールへ直行するシャトルバスに揺られれば良い。
   道中心配はなさそうだった。目的の書店がモール内にあることから、道に迷うこともあるまい。炎天下、戸外を右往左往だけは願い下げである。

 

   気楽でないのは当然、キムと行動を共にすることだ。
  桔梗は丸1日、逃げようの無い状況に放り込まれてしまった。


  早くも疲弊を感じている。同僚の後に続いて日暮里駅で降り、乗り換えに向かった。会話らしい会話もせず、ただ両者ともガタゴト揺られるがままである。

 

 

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  キムは、暑い、だとか、ねえちょっと冷房効いてるの?だとか、これじゃあ温水プールだわね、JRもちょっとは考えたほうがいいわよ、などポツポツ不満を漏らしたが、に同意を求めて言ったものなのか、ただの独り言だったのか、判別に困った。


   何か気の利いたことを言うべきなのかもしれなかった。このまま、黙っていて良いものか。恋人の一件について、励ましなど、すればよいのだろうか?

 

(第8話へつづく)