THE ゲリラバンド置物人間 Track#1-2
Track#1-2 知ったかぶり人生難
’’知性!品性!貧困知!貧困品格、我らの有閑、人生難!’’
「あれはよ、要するに釣り銭泥棒じゃねえか」
高坂すばるは忌々しそうに湘子を見遣って、舌打ちした。湘子は屁でもないらしく、
「ふうん。健全な、暇つぶしなのにぃ。行かないってこと?」
といけしゃあしゃあ、強者なのである。
あっさりと負けた敗北感に、すばるはタンカきってNo.33を後にするのだが、その裏で、彼は、帰ろうとはせず、もぞもぞ軒先に留まっていた。
その様子を窓の向こうから覗いていた三千雄は、心配になりドアを開けた。
「すばる君。どうかしたかい?」
そう問えば、高坂すばるはどうやら、話し相手がほしいらしいかった。
「…ははあ、お悩み中の恋の話かな?」
三千雄は年長者らしい余裕を見せて笑ったが、すばるは、頼むから湘子にだけは言わないでほしい、と懇願した。
「こういっちゃ何だがよ。ミッチーの連れは、放送局だろう?秘密厳守なんて、出来やしないに決まってんだ」
ウムウム、と三千雄は大きく二つ頷く。
「それはね、世の理、宇宙の真実。湘子ちゃんの口に戸は立てられぬ」
すばるの肩、ぽん、と手のひらを当てがうと、彼は朗らか、謳うように、
「とりあえず、話はゆっくり聞かせておくれよ。暇儲けの道中は、すばる君。今夜も長くなるからね!」
と、結局また今晩も、彼らの釣り銭漁りに付き合わされる羽目になったのだった。
「…無いわね。無い」
「隣のにも、無さそうだね」
三人は、夏の環七通り沿いの自販機に、釣り銭の取り忘れがないか、今晩もくまなく調べている。深夜二時近いが、初夏の高円寺に、昼も夜もない。ライブハウス帰りの連中や、すばるのように深夜カフェで時間を潰していた人間達が、そろそろ帰途につく時刻である。通りには人影が幾つもあり、ここが夜生活者たちの街・高円寺であることを、すばるは改めて感慨深く受け止めた。
暇儲けに積極参加することを、今日も拒んで、すばるは手持ち無沙汰である。自販機を前にしゃがみ込む友人たちの背を、ただ見つめるだけだった。
(あー、ラーメン、食いたい)
あれほどまでに深夜ラーメンが、胃袋の幸福に貢献する奇跡的事実に、彼は思いを馳せる。
三千雄は話を聞くと言っておきながら、結局暇儲けに熱中しており、またも湘子と三千雄につきあわされる身となっては、せめてラーメンのことでも考える他、苛立ちを抑えることは出来ないのである。
「おうよ」
今度は後ろから、別の誰かの手が肩に乗る。すばるは一瞬睨むように振り返ったが、相手が竹内友尊とわかるなり、目つきが緩んだ。よお、と片手あげると、相手も同じように手をあげ、応えた。竹内友尊は、すばるが作詞担当するバンドの、ベーシストである。元ラグビー部だったことから、「ラガー」の愛称で呼ばれている。
「またアレか。暇儲け」
(つづく)
THE ゲリラバンド置物人間 Track#1-1
Track#1-1 知ったかぶり人生難
’’知性!品性!貧困知!貧困品格、我らの有閑、人生難!’’
「へんな女がいてよ」
カフェNo.33店主と、その連れ合いである湘子は、独語する友人の姿に、素早く視線を投げた。そして、示し合うよう頷いた。
「そのひとは、美人さん?」
と店主の三千雄。
「美人でしょう」
と湘子。
「すばる君は、どうも、面食い癖が酷いからなあ」
三千雄がコーヒーを注ぐ間も、高坂すばるは心ここにあらずで、黙りこくって窓の外の風景を見たりするものだから、何だか少女じみて見てられない。湘子は内心呆れて、すばるが言葉を付け足すのを待った。
「…いきなりタクシーに乗り込んできて、」
すばるはペン先でノートを突っついた。
「そんで、おんなじ高円寺駅で降りたかと思ったら、いつの間にかどっかに消えていったんだ」
彼は文庫本に眼を落とし、それきり黙り込んでしまった。
「さては、恋かな」
三千雄のカフェNo.33のキッチンは狭いながらも愉快な彩りでいっぱいである。調理は彼の担当である。コーヒーは深煎の、重め、が彼の好みらしい。店内には焙煎したての豆が、溢れんばかりに芳香放ち、みっしり充満、それこそ店ごとがコーヒーの贈答品のようである。訪れた誰しもが、彼のコーヒーに洗脳されるという噂まであるほどだ。
パートナーの湘子はウェイトレス兼、調理補助。二人三脚で営むこのカフェは、夕方頃から開店し、深夜営業する。高坂すばるはここの常連であり、二人とは旧い友人同士である。
「文学なんて、やってる場合じゃないわよねえ」
「すばる君は、不器用な男だからなあ」
二人は心配顔して、カウンター越しから、彼の憂い顔を覗いている。
「…それで、今晩の暇儲け、すばる君参加するの?」
閉店時刻が迫ると、湘子がスタスタと歩み寄り、すばるのテーブルの上も拭いて片付けた。すばるはすばるで、肩筋のコリに悩まされているので、もう帰ろうかと言う時の頃であった。
「あ?」
「あ?じゃないわよ。暇儲けに、来るかって聞いてるのよ」
つづく
THE ゲリラバンド・置物人間 結成前夜
バンドメンバー紹介
○vol/タンバリン...奏 小夜子…家出娘。家出先で辿り着いた高円寺の街で、マイクを握ることになる。
○Bs.竹内 友尊…元大学ラグビー部員。筋肉バカ。周囲からはラガーの愛称で呼ばれている。
○Gtr.成部 リキ…「置物人間」のバンドリーダーでゲイ。高坂すばるに恋心を寄せている。
◎作詞担当 高坂すばる...高坂書店店主。小説家志望。成部の同窓生。
◎作曲担当/ステージにおける置物人間 土砂川双鉄…成部とすばるの恩師。書道師範。
その他の主要な人物
⦿向井三千雄…カフェNo.33の店主。元ジャンキーの平和主義者。
⦿向井湘子…三千雄のパートナー。驚くべき馬力の持ち主。
#結成前夜ーすばるの覚書
あのしちめんどくさい母親も、年を取ったと思えば許せなくはない。
正月に、久々帰省してみりゃ延々と小言ばかりだが、あれはあれで母さんとして、
俺は健気に許すしかないのかもしれないが。
―店は安泰だし、何も心配しなくていい。
そう告げて、俺は薄く笑ったんだ。
帰り際に、母さんは俺の手に一万円札をねじこんだ。ねじこむなと言うのにねじこんだ。
すると俺は健気なもので、また、不孝なもので、たまの贅沢、とつぶやく。
自ら呪って、自ら金持ち気分。迷わずタクシーに乗り込む。何をしたって、高坂書店は変わらずあの場にある。俺はどこにもいけない。
儲かりもしない。何者にもなれない。
すべてが、じっと暗がりから、黙り込んでこっちを見てるんだ。俺はそれが怖かった。
だから臆病風吹かせて、まったく動けず、まったく、まったくの置物だった。
―でもあの晩に、あの母さんの一万円札で乗り込んだタクシーのせいで、俺はタクシーよりも
猛烈な何かに背を押され、つんのめって、まえつのめりのまま、全力で走ることになる。全部が、あの時点で既に、始まっていたんだ。
(…すばるの覚書は、ここで終わっている)
つづく
宇宙の理(全6話・最終話)
最終話
一度冴えた目に反し、横たえた身体は深くマットレスに沈んでいた。昨日、アルバイトを終えたのは…確か十一時。そのあと帰宅、菊比呂の持ち帰った弁当を三等分にして。台本の最終チェックをして。それで―。午前二時を過ぎてから寝た。たぶん。だとしたら、たった二時間を眠ったに過ぎないことになる。
まんじりとも出来なかった。
毛布に包まったまま、今日が辿る先をぼんやり憂う。こんなへなへなで。こんなに中途半端にスタート切るなんて。―あたしはバカだ。ああ、バカ、バカ。バカタレ!
小夜子は飛び起きると、布団から出た。洗面所の蛍光灯に、眠りたらぬ目はチカチカ、強烈だったが歯をごしごし、これでもかと磨き上げ、顔は、ばしゃっと威勢が良かった。浴室の蛇口を捻り、熱いシャワーを、これも長めに、念入りに。セリフ唱えて唱えて、浴び終える。
カーテンを開く。街は目覚めた。盛大なファンファーレを朝は響かせる、環七通りを、トラックだのバイクだの、原付だの、ごうごうぶうんが空の高みを脅かし、天に対抗せんと息巻いていた。
高円寺は交通の便が良い。
JR新宿駅までが六分、渋谷駅まではせいぜい十五分であり、北上した先には西武新宿線が走っている。新宿との、たった六分の隔たりが、この高円寺という街を独特に仕立てあげていた。新宿とも、渋谷ともかけ離れている。住まうは貧乏作家であり、小夜子のような、役者の卵であり、バンドマンであり画家を志す貧乏人達である。
誰もが当たり前とは遠い距離を歩む、彷徨人だ。そして、この街の、たくさんの同志同様、小夜子もまた、不安を、情熱を、両極を、繰り返し行き来していた。
目的地は、新宿駅から地下鉄で十分と、やはり気楽である。
彼女は駅のコーヒースタンドでホットコーヒーとピーナッツバターサンドを注文し、むしゃむしゃやって、そのままごくりと飲み込んだ。腹はいつもと同じ不満顔、けれど、哀れな胃袋に、これ以上のむしゃむしゃを許してやることは、出来ないのである。財布は、あくまで紐固く。家賃が払えなくなったら、どうしようもない。
―駅構内はごった返していた。
通勤する人達と合流すると、その流れに流され、大江戸線のホームへ向け、下る。下りながら、彼女はふと、不思議の国のアリスを思い出していた。深い穴を落ちた先の世界。うさぎを追うアリスが経験する、冒険の数々。
あの物語の結末。小夜子は、好きではない。
満員電車の彼女は、演技のイメージを膨らませている。
次第次第、期待が膨らみ始めていた。身動きの取れぬ十分間をやり過ごし、彼女は大勢の人と一緒に、目的地の駅ホームへと吐き出された。埃っぽい地下の風が、顔をぶわりと吹き付けて、視界が白っぽく光る。早朝、洗面所に瞬いた、チカチカ点滅する光のようなものは、しばらく散ると、気が済んだとばかり、去っていった。
スーツ姿の人々に混じる。
彼女のコンバースが、人々の黒っぽい足元に、時々赤く閃いている。足取りは軽くても良いはずだった。―この先に、大きい丘がある。その丘を登りきれば、きっと、水面の光る湖なり海なり、小夜子の眼前にやっと視界が開けるはずなのだ。
地下深く潜った大江戸線を昇る。だんだん息が切れた。きっとそれは自分が過度に緊張しているからだろう、と彼女は思った。息切れはきつく胸を締め上げている。
…こんな緊張、打ち勝ってやる。
彼女は自身を叱咤激励する。地下鉄駅の階段を昇った先に、澄み切った青空が、出口向こうに、見え隠れする。
「ついた…!」
やっと笑顔を咲かせた。「いくよ、小夜子(あたし)!」
出口の青に目を輝かせ、駆け上がった。と、昇りきりかけ寸前で、またも視界が白く点滅した。星が散り、視界はその白い星のような瞬きで埋め尽くされてゆく。胸がドキドキ言っている。嫌なくらい鼓動が耳を打っている。小夜子はしゃがみこむ。出口の向こう、やはり空が青く広く、明るく照って、それを小夜子はしゃがんだままゆっくりと見上げた。青空は、急に反転してみせた。…
「貧血ですよ、貧血」
白衣に身を包み、老医師はため息する。「酷い。こんなので、よくまあ生活してたね。あなた、ちゃんと食べてる?」
付添いに来た菊比呂が、気まずい視線を小夜子に送った。彼女は目を伏せ、
「…菊ちゃんは、悪くないよ」
と、うなだれた。菊比呂も又、隣でうなだれた。
点滴を受け、小夜子は帰途についた。鉄剤が処方され、当分のあいだ、服用が義務づけられた。血液が通常女性の半分も無いのだから、動けなくなっても当然、医師は言葉厳しく、彼女に静養を命じた。
医院を出る頃には、もう日が傾きかけていた。
菊比呂は小夜子以上の落胆を見せ、先に帰ってしまっていた。
―成部は何て言うだろう?自分は彼に、何て説明すればいいのだろう?菊比呂はあんなに落ち込んでいる。どれもこれも、自分が悪い。自分は大事な友達を、あんなにもがっかりさせてしまった。成部の千円札が、無駄になった。二人とも、応援してくれたのに。あたしはあんなに、嬉しかったのに。…
重い足で、帰途につく。
そこらじゅう、秋が転がって、あっという間に日は暮れた。高北ハイツに、戻る気には、なれなかった。なれるわけが、なかった。いつだかのように、コーヒー飲んだくれる気すらも起こらない。彼女はただ、あてどなく宵の高円寺を歩き回った。
そのうち、夜が濃くなった。それでも帰る勇気はわかず、何の解決にも至らないまま、彼女は歩き続けていた。
虫が鳴いている。夏が、本格的に終わろうとしている。
(―終わってしまう?まっさか)
そんなこと。信じるわけにも、受け入れるわけにもいかないじゃない!
路上に彼女は言葉落とし続けた。
…だって当たり前じゃない。これが失敗なら、勝つまで失敗すりゃいいだけじゃない。
小夜子はこれまで以上の強さで、胸にしかと刻んだ。
絶対に。誰がなに言おうと、コケにされようと。
「―夢追イ人よ、」
どこかで聞いた声がした。高円寺文庫センターの角を折れるところだった。
「あ、博士」
老いぼれ学者は、以前と変わらぬ正露丸臭を身に纏い、上体を前後に揺らしては、モゴモゴと呟いた。
「夢追イ人よ。余は博士である。故に宇宙の理を識ってイる」
小夜子は多少の懐かしさを込めて、博士を見た。渦巻きメガネは夏が終わるにも結局手垢で曇っている。
「余は宇宙の理を識ってイる」
彼は繰り返した。「宇宙の理、識ル者は、余の他に在らズ」
と、やけに今夜は理だとかを勧めて来る。チョチョ、と立て札をまた指す。
「宇宙の理は五千円である」
「―悪いけど、あたし小銭しかない」
小夜子はキッパリ言った。それは事実だった。「だから、買えない」
すると、博士の前後する上半身の動きはピタリと止まった。小夜子は続けた。
「ねえ、博士。あたし、花を買うわ。二つ。友達にあげるの」
博士に二十円を手渡す。どこで摘んだかもわからぬ、得体の知れない花だったが、小夜子にはそれだけで充分だった。博士は黙礼し、金は懐に、そそそとしまった。
○
以来ずっと、博士を見かけない。菊比呂も、スッカリ見なくなったと言う。阿佐ヶ谷方面での目撃情報もあったが、定かで無く、冬が近づく頃には、その筋の情報も途絶えてしまった。
成部は今日も熱心にワイシャツの襟に洗剤を塗布している。そして、いつもの調子でまた言うのだ。
「小夜子、アンタまた、落ちたわね」
了
宇宙の理(全6話)
第五話
翌々日になって、オーディションの通知が小夜子のもとへ届いた。書類選考を通過し、三日後の九月七日、西新宿の会場まで来るよう達示が来たのだった。
成部は薄い反応しか見せなかった。
「へーえ」
先日の臭気の件があって以来、機嫌が悪い。大体、成部は潔癖なところがある。ワイシャツをしつこく何度と洗うし、四六時中ファブリーズでしゅっしゅ、しゅっしゅと忙しい。
けれど、この日の成部は寛容だった。
「アンタがうまくいったら、アタシ達、少しは希望があるかしら」
菊比呂を呼ぶ。財布から千円札を取り出すと、
「菊、これ。今晩ケーキ買って来て」
小夜子は呆気にとられている。菊比呂も同様だ。成部はフン、と鼻を鳴らすと、
「何よ。どうせケチだとか思ってるんでしょう」
菊比呂の手に紙幣を握らせた。
「小夜子、これは出世払いよ。チャンスって奴は、アンタみたいな子にも、平等にやって来るのね。案外と、知らなかったわ」
成部は鏡で襟と袖に汚れが無いことを入念に確認した。
「さ、アタシは今日も社畜三昧。アンタ達も、家賃くらい払うのよ」
言い残して、彼は出勤して行った。
その晩、食卓は賑わった。そうめん、豆腐、サバ缶桃缶、氷砂糖。卵、ガリガリくんアイスバー、そして、最たるは、ケーキである。
こんな気分華やぐのは久し振りだった。三人で囲む狭いコタツ机に、それぞれの夢が乗っかった。三人は饒舌に語った、ケーキは食べ尽くされ、生温い水道水が幾度と喉を流れた。
―夏が終わる。壊れたままの網戸向こう、秋が囁き合っている。語り尽くそうと思えば、夢なんていくらでも語り尽くせた。けれど正夢だけは、彼らに語ることの出来ぬ、夢だった。
小夜子は薄く目を開ける。すると辺りは黙って動かない。
アラーム時計は午前四時を指している。秒針音が、薄闇を等分に刻んでいた。予定よりずっと早い。
本来の起床時刻まで、寝直せば良いだけのことだった。だが、この昏い目覚めはそれを小夜子に許さなかった。試みるごと、ますます覚醒してしまう。
最終話へつづく
宇宙の理(全6話)
第4話
「ふうん。フランス映画でいいんじゃない?」
そんな風に、難儀無く、ぱぱっと選んだ。こういうことに関して、菊比呂は玄人である。
『橋の上の娘』と、『スローガン』、二本のDVDを借りて、二人はレンタルビデオショップを後にした。
二人でブラブラ歩きながら話した。殆どは、彼の恋愛相談だった。
―突然、菊比呂がケケケケ、と笑い立てた。彼の指す先を目で辿ると、そこに博士がいる。
丁度、高円寺文庫センターの角を折れるところだった。博士は、いつも通りの出で立ちである。白衣にネクタイ、垢で曇る渦巻メガネを匂わせ、上半身は前後に揺れている。
菊比呂はケラケラ笑って、もうたまらないらしい。
「…ちょっと、菊ちゃん!」
脇腹を肘で突く。友人に乗じて笑うことが、この夜の彼女には出来なかった。
「一筆、お願いしてみようか」
声潜め、菊比呂に提案した。すると聞こえていたのかいないのか、博士は例の立て札をチョチョ、と指す。
「―書は百円である」
正露丸の息で言った。
二人はからかい半分、それぞれ小銭入れから百円をつまみ出し、博士の横の空き缶へ落とした。博士は金を懐にしまった。サササササ、と実に素早かった。
「何だか、臭いわね」
成部が、眉をひそめた。「食欲が失せるじゃない。何なの」
三人の囲む食卓は、いつもとあまり代わり映えのしない、そうめんと豆腐、みかんの缶詰である。
「ちょっと、アンタ達。何か知ってる?知ってるんでしょう」
気まずい視線を、菊比呂が小夜子へと投げた。成部は見逃さなかった。
「アンタね、小夜子」
「いいじゃない、あたし結構気に入っているのよ。はい、ごちそうさま」
大急ぎで食器を片付すと、ダイニングから逃げ去った。成部はしつこい。しつこいし、根に持つし、面倒臭い。自室に戻ると、これも急ぎで鍵を閉めてしまった。
―とはいえ、自分でも臭くて仕方ない。
鼻が曲がりそうだった。けれど、今の小夜子には、この筆書きがしっくり来る。バカかと問われれば、きっとバカなのだろう。こんな胡散臭い、おまけ正露丸臭いわら半紙の二文字に、心委ねているのだから。
「バカだ」
声に出してみた。「正義」
つづく
宇宙の理(全6話)
第三話
「へえ、土日もシフト入ったんだ」
きれいな爪をしている。ピンク・ベージュの。
趣味が良い。プロの術を施されたのだろう。テーブルを拭くと、ネイルの色彩が、残像描き、まばゆい弧を描く。小夜子の眼は、それを注視した。
―優月が、急に顔を上げた。
「なに、さっきから」
小夜子はハッと醒めて、
「今日のネイル、いいね。かわいい」
大急ぎの笑顔を貼り付けた。エプロンのポケットに、そっと自分の両手はしまい込んだ。
「…ああ、これ?」
右手、左手、と順番に、優月は陽にかざしてみせた。―ひら、ひらりと宙を舞う。蝶蝶みたいだった。それか、花びら。
優月は満ちた目を指に注いだ。
「昨日の撮影のぶん。気に入ったから、あたし、落とさないでって頼んだの。メイクさん、うんと渋って見せたけどさ」
あはは。高く笑った。
アルバイトが終わるのは、夜十一時である。
小雨が降った後らしい。舗道は癒やされ、夏の終りが、この街に住む、たくさんの夢追い人を、少ししんみりさせる。
小夜子は真っ直ぐ歩きたかった。優月のように、真っ直ぐ歩きたかった。こんなに、いちいち立ち止まざるを得ない、曲がりくねったこの舗道を、恨もうと思えば、いくらでも恨むことは出来た。
自分は醜い。
そう独語して、窓に映る自分を直視することすら出来ない。
人のことなど、どうでもいいのだと、とうに決めたのに。
彼女はシャッターの降りたパル商店街を通る。心に蓋し、横断歩道を渡る。誰かを羨む醜女の自分は、とてつもなくおしゃべりで、それが嫌だから、気持ちを寡黙に、シャッター下ろして、やっと歩くのだ。この自分には、自分しかいない、背くらべなんて、絶対しない。そう決めたから。
四丁目カフェは、この時間でもまだ営業している。喧騒の金曜の夜に、客がごった返して、とても元気だ。かろうじて、一席空いており、小夜子はそこに通された。
窓辺から、南口のバスロータリーを見つめる。高円寺駅のホームに立つ人を遠く見守って、小夜子は次のオーディションに向けたエントリーシートを記入した。
一番安いのはホットコーヒーだ。お代わりは自由である。さして上手くもないコーヒーだけれど、こうしてねばるのは、この界隈によく知れ渡った、常套手段なのだった。
時々手を休め、すると小夜子は街灯の明かりをじっと凝らした。
…明るい夜なのだ。どれもこれもが、明るいのだ。だから、そこら中で笑い声を上げて、冗談飛ばして、元気でいられる。夜は明るい。
明るく。明るく。
それも又、常套手段だ。嘘偽りは、無いはずだった。
電話で呼び出すと、菊比呂は意外にもすぐ現れた。すぐ隣の激安ショップで食糧の買い出しに来ていたと言う。
つづく