書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

宇宙の理(全6話・最終話)

最終話

 

 

 

 一度冴えた目に反し、横たえた身体は深くマットレスに沈んでいた。昨日、アルバイトを終えたのは…確か十一時。そのあと帰宅、菊比呂の持ち帰った弁当を三等分にして。台本の最終チェックをして。それで―。午前二時を過ぎてから寝た。たぶん。だとしたら、たった二時間を眠ったに過ぎないことになる。

 

 

 まんじりとも出来なかった。

 毛布に包まったまま、今日が辿る先をぼんやり憂う。こんなへなへなで。こんなに中途半端にスタート切るなんて。―あたしはバカだ。ああ、バカ、バカ。バカタレ!

 小夜子は飛び起きると、布団から出た。洗面所の蛍光灯に、眠りたらぬ目はチカチカ、強烈だったが歯をごしごし、これでもかと磨き上げ、顔は、ばしゃっと威勢が良かった。浴室の蛇口を捻り、熱いシャワーを、これも長めに、念入りに。セリフ唱えて唱えて、浴び終える。

 

 カーテンを開く。街は目覚めた。盛大なファンファーレを朝は響かせる、環七通りを、トラックだのバイクだの、原付だの、ごうごうぶうんが空の高みを脅かし、天に対抗せんと息巻いていた。

 

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 高円寺は交通の便が良い。

 JR新宿駅までが六分、渋谷駅まではせいぜい十五分であり、北上した先には西武新宿線が走っている。新宿との、たった六分の隔たりが、この高円寺という街を独特に仕立てあげていた。新宿とも、渋谷ともかけ離れている。住まうは貧乏作家であり、小夜子のような、役者の卵であり、バンドマンであり画家を志す貧乏人達である。

 誰もが当たり前とは遠い距離を歩む、彷徨人だ。そして、この街の、たくさんの同志同様、小夜子もまた、不安を、情熱を、両極を、繰り返し行き来していた。

 

 

 目的地は、新宿駅から地下鉄で十分と、やはり気楽である。

 彼女は駅のコーヒースタンドでホットコーヒーとピーナッツバターサンドを注文し、むしゃむしゃやって、そのままごくりと飲み込んだ。腹はいつもと同じ不満顔、けれど、哀れな胃袋に、これ以上のむしゃむしゃを許してやることは、出来ないのである。財布は、あくまで紐固く。家賃が払えなくなったら、どうしようもない。

 

 ―駅構内はごった返していた。

 通勤する人達と合流すると、その流れに流され、大江戸線のホームへ向け、下る。下りながら、彼女はふと、不思議の国のアリスを思い出していた。深い穴を落ちた先の世界。うさぎを追うアリスが経験する、冒険の数々。

 あの物語の結末。小夜子は、好きではない。

 

 

 満員電車の彼女は、演技のイメージを膨らませている。

 次第次第、期待が膨らみ始めていた。身動きの取れぬ十分間をやり過ごし、彼女は大勢の人と一緒に、目的地の駅ホームへと吐き出された。埃っぽい地下の風が、顔をぶわりと吹き付けて、視界が白っぽく光る。早朝、洗面所に瞬いた、チカチカ点滅する光のようなものは、しばらく散ると、気が済んだとばかり、去っていった。

 

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 スーツ姿の人々に混じる。

 彼女のコンバースが、人々の黒っぽい足元に、時々赤く閃いている。足取りは軽くても良いはずだった。―この先に、大きい丘がある。その丘を登りきれば、きっと、水面の光る湖なり海なり、小夜子の眼前にやっと視界が開けるはずなのだ。

 

 

 地下深く潜った大江戸線を昇る。だんだん息が切れた。きっとそれは自分が過度に緊張しているからだろう、と彼女は思った。息切れはきつく胸を締め上げている。

 …こんな緊張、打ち勝ってやる。

 彼女は自身を叱咤激励する。地下鉄駅の階段を昇った先に、澄み切った青空が、出口向こうに、見え隠れする。

 「ついた…!」

やっと笑顔を咲かせた。「いくよ、小夜子(あたし)!」

 

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 出口の青に目を輝かせ、駆け上がった。と、昇りきりかけ寸前で、またも視界が白く点滅した。星が散り、視界はその白い星のような瞬きで埋め尽くされてゆく。胸がドキドキ言っている。嫌なくらい鼓動が耳を打っている。小夜子はしゃがみこむ。出口の向こう、やはり空が青く広く、明るく照って、それを小夜子はしゃがんだままゆっくりと見上げた。青空は、急に反転してみせた。…

 

 

 

 「貧血ですよ、貧血」

 

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 白衣に身を包み、老医師はため息する。「酷い。こんなので、よくまあ生活してたね。あなた、ちゃんと食べてる?」

 

 付添いに来た菊比呂が、気まずい視線を小夜子に送った。彼女は目を伏せ、

 「…菊ちゃんは、悪くないよ」

と、うなだれた。菊比呂も又、隣でうなだれた。

 

 点滴を受け、小夜子は帰途についた。鉄剤が処方され、当分のあいだ、服用が義務づけられた。血液が通常女性の半分も無いのだから、動けなくなっても当然、医師は言葉厳しく、彼女に静養を命じた。

 

 

 

 医院を出る頃には、もう日が傾きかけていた。

 菊比呂は小夜子以上の落胆を見せ、先に帰ってしまっていた。

 ―成部は何て言うだろう?自分は彼に、何て説明すればいいのだろう?菊比呂はあんなに落ち込んでいる。どれもこれも、自分が悪い。自分は大事な友達を、あんなにもがっかりさせてしまった。成部の千円札が、無駄になった。二人とも、応援してくれたのに。あたしはあんなに、嬉しかったのに。…

 

 重い足で、帰途につく。

 

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 そこらじゅう、秋が転がって、あっという間に日は暮れた。高北ハイツに、戻る気には、なれなかった。なれるわけが、なかった。いつだかのように、コーヒー飲んだくれる気すらも起こらない。彼女はただ、あてどなく宵の高円寺を歩き回った。

 

 

 そのうち、夜が濃くなった。それでも帰る勇気はわかず、何の解決にも至らないまま、彼女は歩き続けていた。

 虫が鳴いている。夏が、本格的に終わろうとしている。

 (―終わってしまう?まっさか)

 そんなこと。信じるわけにも、受け入れるわけにもいかないじゃない!

 

  路上に彼女は言葉落とし続けた。

  …だって当たり前じゃない。これが失敗なら、勝つまで失敗すりゃいいだけじゃない。

 

 小夜子はこれまで以上の強さで、胸にしかと刻んだ。

 絶対に。誰がなに言おうと、コケにされようと。

 

 

 

 

 「―夢追イ人よ、」

どこかで聞いた声がした。高円寺文庫センターの角を折れるところだった。

 「あ、博士」

老いぼれ学者は、以前と変わらぬ正露丸臭を身に纏い、上体を前後に揺らしては、モゴモゴと呟いた。 

 

 「夢追イ人よ。余は博士である。故に宇宙の理を識ってイる」

 

 小夜子は多少の懐かしさを込めて、博士を見た。渦巻きメガネは夏が終わるにも結局手垢で曇っている。

 

 「余は宇宙の理を識ってイる」

彼は繰り返した。「宇宙の理、識ル者は、余の他に在らズ」

 と、やけに今夜は理だとかを勧めて来る。チョチョ、と立て札をまた指す。

 

 

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 「宇宙の理は五千円である」

 「―悪いけど、あたし小銭しかない」

小夜子はキッパリ言った。それは事実だった。「だから、買えない」

 すると、博士の前後する上半身の動きはピタリと止まった。小夜子は続けた。

 「ねえ、博士。あたし、花を買うわ。二つ。友達にあげるの」

博士に二十円を手渡す。どこで摘んだかもわからぬ、得体の知れない花だったが、小夜子にはそれだけで充分だった。博士は黙礼し、金は懐に、そそそとしまった。

 

       ○

 

 以来ずっと、博士を見かけない。菊比呂も、スッカリ見なくなったと言う。阿佐ヶ谷方面での目撃情報もあったが、定かで無く、冬が近づく頃には、その筋の情報も途絶えてしまった。

 

 成部は今日も熱心にワイシャツの襟に洗剤を塗布している。そして、いつもの調子でまた言うのだ。

 

 「小夜子、アンタまた、落ちたわね」

 

               了