書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

宵闇ゆく(一話読み切り)

 

 あんまり耳が膨張するものだから、閉ざしてしまいたい。何も、誰の声も聴きたくない。何も、知りたくなんかなかった。

 

 街は弛緩している。花芽の匂いが、しどけなく土の温気に溶けていた。それはサイレンの歌声に似て、通行人達を惑わせている。呑気なのだ。

 

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 実際には、そういう、呑気な春だった。なのに疲れていた。もうクタクタで、しょげている。花芽なんて、見てもいなければ見えてもいない。匂いなんて。

 翻訳が、一向によくならない。進まずに放っておいたら、締切はぐんぐん近付いて、彼女の胸ぐらを掴んでしまった。先方からの催促も、不快を伴った文面で、するとますます、訳がよくならない。

 

 不甲斐ない自分を、もうひとりの自分が睨み目光らせていた。自身のたりなさを許せぬ自分は、実際のところの自分を、仁王の形相で睨めつけている。腰に手をあて仁王立ちしている。

 仁王の自分は、馬鹿者!と一声に叫んだ。仁王の手で、実際の自分の、頬を張ってくる。何度も何度も張って、何を言うにも張って来る。―駄目じゃないか、下手くそ、締め切りは。また失敗か。また後悔か。また夜か。締め切りは。もう夜か。散々に打って来る。

 猛るこの自分に、赦しを乞う。しかし、相手は何せ仁王の自分、通じたものではない。

 

 通る人達の内に、津田茜の姿はあった。今晩もまた、彼女の眼は曇り硝子を嵌め、疲弊が彼女を押し花に変えていた。帰路の途上にある茜は、銅貨窪駅で下車し、カタツムリの行進中である。

 

 花芽なんて。花だから芽だからって、上機嫌と限ったものか。背景を見よ、背後は夜闇だ。

 

 何度繰り返すかわからない。吐けと言われるなら墨汁でも吐き出せそうだった。もう何年も、不安を患っている。焦りが喉までこみ上げている。焦燥が汚した胸は、就寝の時刻まで元の通りになるはずも無い。焦って焦って、結果、彼女はぐんにゃり萎れていた。

 今晩も、こうなのだ。いつまで、自分は待てば良いのだろう。いつになったら、自分は着手するだろう。何だかこわいのだ。出来やしない。ただの一語も、訳せない。先方は怒っている。

 夜に、沈んでゆく。とても静かに、気取られもしない。黙々、職人顔して沈んだ。茜はもたついて、歩き方を識らぬか忘れたようだった。そんなだから、下を向き歩いた。

 

 純情商店街を抜け、庚申通りへ折れる。

すると、急に思い出したように、賑わいが降って湧いた。

それは、茜の胸を灯す気配があった。庚申通りは、惜しげも無く手の内を見せて、浮世の金曜、人の気も知らず我、鬱に関せず、陽気に、だだっ広く騒いでいる。

 

 茜の頭上、居酒屋の二階から、ぱちり、ぱち、と手を打つ者があり、拍子木のような音は、鉄砲雨となって通りに零れた。音が路上で弾ね、踊ったかと思うと、一瞬茜を振り返った。

 (それにしても)

茜はもつれる歩調に気を遣いながら、

 (音って奴は奇妙だ。愉快者だな。きっと消えてゆくのに、どうしてか幸せそうじゃないか)

ほうっと二階店を見上げ、彼女はちょっと口を開けてみた。

すると笑い声と、誰かの手を鳴らす音がやはり落ちて来る。茜はそれを飲み込んで、ちょっと満足した。

 

 タコ焼き店と商売敵の今川焼屋。


ここを通るのは勇気が要る。なにせ茜は今川焼の常連で、そのせいでタコ焼きが自分を目の敵にしているのでは、といつも勝手に心配だった。その心配は度を越しており、ガタイのいいタコ焼屋に、いつか首根っこ掴まれるんじゃないか、そのうちアパートに怒鳴り込まれるんじゃないか、と本気で思い込んですらいる。

タコ焼きをやり過ごし、今川焼のオヤジに会釈した。

 「おじさん、美味しいのちょうだい」

茜は百円玉を出した。すると相手は機嫌が良かったらしい。

 「アンタ、いっつも同じので飽きるだろ。今日は一個、おまけしてやるよ」

 

 タダで貰った芋餡味を食いながら、ぶらぶら歩いた。締め切りは、一回忘れる。少し、歩き方がわかって来た気がした。

 

 焼鳥店がある。

 

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 網に敷かれた串刺しを、タオルを頭に巻いた男が団扇であおいでいる。古い換気扇がゼイゼイ言っている。肉と油の匂いが立ち込めて、煙はと言うとずんずん昇ってゆく。

 夜空の群青に吸い込まれてゆく煙を、茜は目で追った。その先に星が出ていた。やがて牛飼い座を見つけた。餡を齧った。そしてなんとなく、この感じがちょっとは気に入って、小さな口笛を吹いてやったのだった。

                                 <了>