書生のびのお店番日誌

書生のびによる、人生行路観察記

「伝書鳩よ、夜へ」第9話

   食前酒を飲むアリーの姿は美しかった。気怠い表情、物思う眼をして、往年の映画女優のようである。

 

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平素見る事ない雰囲気を纏った友人を前に、桔梗はどう話したものか、急に分からなくなってしまった。

   困惑を隠そうと、コーヒーを啜る。スッカリ冷めて、泥水の味だ。

 

  

   グラスを置くと、彼女は言った。

  「ーあのねキキ。この後の予定っていうのはね、ある人のパーティーにお呼ばれされてるの。だから長居は出来ないんだけれど、先方には9時半まではここで友達とお喋りして、それから行くと伝えてあるから、あまり、急がなくても大丈夫よ。いつものようにゆっくり過ごしましょう」

 

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  壁時計は8時半を指していた。

  あと1時間ある。9時半までの1時間内で、藤枝の恋心を不審に思われないよう説明し、説明した上で例の分厚く膨れ上がった気味の悪い茶封筒を、これも又不審に思われないないよう手渡さねばならないのであった。

 

  どうもこうなってくると自分には過ぎたプレッシャーに思えてならない。

 

   桔梗はつい何日か前まで、自らの手元にあった高揚感を懐かしく思った。それは確かに、掌中に在った。自分は恋の手助けをし、ある意味の社会貢献をする。その気になれば、自分のような神経病みにだって人の役に立つ行動くらい起こせるのだ。そしてそれを、是が非でも証明してみせようと意気込んでいた。手中に収まる眩しい何かに、桔梗は陶酔していたのである。

 

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   ーしかしああ、あの意気揚揚の気持ち、伝書鳩よ何処へやら、今となってはただ焦りと不安の混合感情がジリジリ心を焼くばかり、楽観の入る隙間すらも無く、傾き始めた。

   

   もし、茶封筒を渡せなかったら。

 

   まずい事に、明日の勤務は朝から藤枝と同じ、早番である。

 

(第10話へつづく)

 

 

「伝書鳩よ、夜へ」第8話

   伝書鳩をサボっている事が藤枝にバレた暁には、ネチネチ嫌味を浴びせられること違いない。恨みつらみの面倒なシナリオが確実に待っている。
    回避するにはもう、今晩渡すしか無い。腹をくくった桔梗はええいとアリーを食事に誘った。

 

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    ハーマンは8時に戻った。

   腹が減ったかグラノーラバーをポリポリ齧っているー前述したように、彼は一見健康そうなものを口にするが、実際は食そのものに興味がなく、只々本と仕事と音楽の世界埋もれて生きている人物である。片手にレコード店の袋を提げ、鼻歌など唄っているのだが、どうやらこれからまた一作業する腹積もりらしい。

   世間離れしたハーマンの感覚を、二人は愛した。挨拶すると、夢二を後にした。


  腹が空いている。駅前のカフェレストランへと入った。銅カ窪駅前すぐのカフェである。ここの窓からは駅前ロータリーの様子が一望出来る。曜日を問わずお客達はくつろいでおり、闊達に自由なおしゃべりを交わし上機嫌である。一人客はというと、各々の思索にぼんやり耽ったりと、暢気だ。

   

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   ここで小一時間ほどの会話と軽い夕食を済ますのが桔梗とアリーの習いである。週に何度か、アリーはバーへ働きに赤坂方面へと出向いた。桔梗はと言うと、無理をすると神経病の症状が強くなる。

 

   その為、楽しみはチョコレート一粒分、疲れの酷くないうちにサッサと帰宅するという、病者なりの心掛けを健気に守っている。賑わう夜の菊屋通り沿いを、ココナッツ号を牽き、帰途に着くのだ。

 

  新銅カ窪周辺の、都心部には珍しい泥臭さと、ざっくばらんの雰囲気をアリーは気に入っているが、今晩は疲れている風だった。連日続く寝不足が起因しているという。

 

   …いつかポキッと折れてしまうんじゃないか。細い花茎をへし折るように。

ー桔梗は案じた。

 

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     人と会う約束があると言うものだから、尚更、サッサと藤枝の手紙を渡し事を済まさねばならず気を急いた。

   カバンに眠る藤枝の手紙、それもあの3センチほども厚みのある封筒。これをいきなり手渡すのでは、ただ辟易とされるだけではないかと思い止まる。そもそも、藤枝は遠目にアリーを眺め、一人ニヤけているのみであり、意中の彼女と会話を交わすわけでもない。

 

  質問されても、目も合わせず返事もせず頷きもしないのだから、あの分厚い茶封筒に詰まった恋のメッセージはあまりに唐突だった。受け取る側から見れば、気味が悪いに決まっている。

 

(第9話につづく)

 

   

   

     


   

   

     

 

  

「伝書鳩よ、夜へ」第7話

  アリーは、その後しばらく仕事にもつかず、療養生活を送っていた。

 

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  近況を知った年かさの幼馴染みが、ある日連絡を寄越したことから、彼女の東京生活が始まるキッカケが生まれた。

    誘い主は、現在もBooks Yumejiで働くキムであった。

   彼女は危ういアリーの精神の灯火を、即、見抜いたのである。

  ー自分の幸せを追求しないでいると、気付いた頃にはシワシワの婆さんよ。

この言葉が、内気なアリーの心を動かした。

 

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     Books Yumejiの閉店時間は午後7時である。以前は、深夜0時まで営業していたが、それを知るのはもはや古株のキムだけである。当時の様子について聞かれると、キムは決まって「酒臭さが充満して、書棚の本まで酒臭さかったわね」とアッサリ答えた。泥酔したのがハーマンに絡んで、それもこれも上の階のテナントに居酒屋とキャバクラが入ってたせいだったらしい。

  居酒屋とキャバクラは2年前に潰れた。

 

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   外出先からハーマンが戻る8時までの時間を、アリーと桔梗はくつろいだ様子で留守番していた。気弱な二人は共感出来る事が多く、友人同士でもある。失敗をとやかく言わない為、儚さの漂う風貌も併せ藤枝を魅了しているのであった。又桔梗にとってはアリーとの気楽なお喋りは緊張をほぐしの神経修復に、一役買っていた。

   

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  鳩の役割を買って出たのだから、本来すぐにでも手渡すつもりだった。日々タイミングをうかがい、うかがい続けたのは事実だった。が、大の優柔不断が邪魔をして藤枝の恋文は未だカバンの中、かれこれ、3日経っている。

 

(第8話へつづく)

 

 


   

「伝書鳩よ、夜へ」第6話

   アリーと、脳に障害のある八つ違いの弟は母の連れ子である。母親の再婚により、腹違いの兄と姉を持つことになった。

 

 

   しかしながら彼女の大学進学と同時に一家は離散し、唯一、弟だけそばに残った。家族関係はもう随分むかしからギクシャクしていた。

 

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   障害を抱えた弟は、幼少期から施設での生活を余儀なくされていた。外の世界を全くと言うほど知らない。

    施設内は昼間さえも仄暗い。病舎へ向かう廊下を歩んでいると、呻き声、苦しみもがく声、嗚咽、怒号が聞こえてくる。廊下も病舎も、薄汚れ朽ちかけてさえいる。

 

 

   弟の病院はそういう場所だった。

  人生の殆どを、彼は不衛生な部屋で不潔な毛布にくるまり生きた。

   陰鬱な施設の雰囲気を忌み嫌った家族は、母親でさえも進んで訪れようとはしなかった。訪問するのは、新しい家族に馴染めないアリーだけだ。

 

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   姉の来訪を心待ちにしている弟は、顔を見るなり手を叩いては跳ねた。アリーはそれを嬉しく思った。必要とされている。彼女の弟は、言葉が話せない。

 

 

   後妻の連れ子だったアリーに、兄姉はいつも冷淡で、意地が悪かった。両親も互いの愛をとうに失って、離散してこそ自然な家族だった。唯ひとり、血の繋がりを感じ家族と思えたのは、あの汚れた病院の汚れたベッドで寝起きする弟だけであった。

 

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   二十歳の誕生日、彼は重病者棟に移された。アリー大学卒業後間もなくの事だった。精神の昂奮を抑えきれず、暴れ喚いて、まるで人が変わってしまったようだった。医師から、彼がもうアリーと認識出来ない状態である事を告げられた。    

   脳機能の回復が、今後一切見込めないという。

 

   事実上の天涯孤独となった瞬間であった。

 

 

(第7話へつづく)

「伝書鳩よ、夜へ」第5話

   「いい返事が来るといいね」

ここは努めて年長者らしく振舞おうとした。

 

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   「藤枝君は頭がいいからアレコレ先読みするのだろうけど、成るように成るよ。無理にとは言わないけれど、ここはドンと構えて...」

   桔梗は結局自分もまた緊張しているのであった。気まずさに、桔梗は封筒をそそくさとカバンにしまった。重たい荷物である。

 

 

   藤枝は錆びついたねじまき人形の体で場を離れ、それからはもう、丸々一日を誰とも口利かなかった。只々本タワーの解体に従事し続け、意中のアリーの姿を目で追うことも無かった。藤枝は被害妄想の対人恐怖症であるから、恋心を明かした事で、他全て、自らの心中すべてが他人の識るところとなったとでも思ったらしい。やけに周囲の目を気にして、終業時刻が来るとろくに挨拶もせずさっさと帰宅してしまった。

 

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   終日手を震わせ働いていた事、また震えをアリーに気取られまいと懸命の努力で隠し通し働いた藤枝を思うと、腹も立たず、むしろその涙ぐましい片恋の努力に妙に感じ入ってしまうのだった。

 

   (恋心は正真正銘、偽りが無い。最初は疑ったけれど、アリーに寄せる思いはダイアモンド級、油汗の恋が光っている)

 

   そう解釈したものだから、桔梗は何とか被害妄想で対人恐怖症の恋を成就させてやりたくなってしまった。

 

   面倒事に自ら首を突っ込んだ。

   恋敗れる結果に違いないが、せめて藤枝のいう「伝書鳩の役」だけでもここは真っ当に引き受けて、遂げてやろうかと、意気込み始めているのだ。

 

(第6話へつづく)

 

 

 

  

   

 

「伝書鳩よ、夜へ」第4話

 「やはり桔梗さん位しか頼る当てが無いんですよ。そこで僕はですね、止む無く桔梗さんにお願いしようと思うわけです」

藤枝は偉く深刻な面持ちでそんな風を言った。

 

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   嫌な予感に身構え、もしやいよいよおかしな宗教とか、後頭部の打撲だとかの話が現実に始まるのではと危惧し、同時に、藤枝君はやはり怒っていて、もしや今から惨惨に非難の言葉を浴びせられるのではあるまいかと、神経をピーンと張って次の言葉を待っている。

 

   ーしかし藤枝の用件はまるきり別だった。デニムの後ろポケットから茶封筒を取り出すと、それをすっと桔梗へ差し出したのだった。

 

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  それは何の変哲も無い、全くただの、茶封筒としか呼びようのない単純明快の茶封筒であった。唯一特徴は、やけに分厚く膨れ上がった茶封筒であると言う事だ。

 

   「コレ、渡して下さい。アリーさん宛です」

 

  札束でも詰め込んだような膨らみを不審に思った。桔梗は無遠慮と知りつつも、つい、四方八方よりこの茶封筒を眺め吟味した。藤枝は不快もあらわに、

  「桔梗さん。これはアリーさん宛の封書なんだから、そういうデリカシーのない挙動は控えてもらいたいですね」

と眉をひそめるのだった。さらには桔梗の疑念を察したのか、

   「金銭の貸し借りとか、そういう下世話なモノじゃないです。桔梗さんには到底、僕の思いの深さなんて分かるまい。時間を見てアリーさんに渡して下さい。つまりは伝書鳩の役を任せようって事です」

 

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  「ふうん」

桔梗はニヤニヤと藤枝を見た。

 「アリーは優しいし、見てくれも藤枝君好みだものねえ」

どうもニヤニヤしてしまう。

 

   藤枝は桔梗の手前、終始仏頂面を決め込んでいたのだが、秘めた恋心をおおっぴらにしたことで、全身を緊張と不安で漲らせていた。

 

    気を揉み、怯え、油汗まで浮かべている。手の平を震わせている。おまけ脚をも震わせ、あまり酷いので、桔梗は藤枝が気の毒に思えてきた。

 

 

  (第5話へつづく)

「伝書鳩よ、夜へ」第3話

   向かいのコーヒー店は思いがけず混雑していた。

 

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  戻ると藤枝が本の山の解体に未だ燃えており、今朝から続く彼の不機嫌はいささか度を過ぎている。

 

 


    (一生不機嫌を決め込むのだろう。何とも気疲れだ)

   今後を憂い、コーヒー片手、雨傘をたたむのも憂鬱に感じる有様だ。

 

  出勤前のアリーがハーマンと談笑していた。コーヒーを待ち兼ねた彼は小部屋を出て待っているのである。

 

   …遅かったね、転んだりしなかったかい?
 
 気遣うような事を口にして、ラテを美味そうに啜った。彼は健康志向を標榜していたが、ただコーヒーのトッピングやらミルクの種類が何となくの健康志向なのであって、聞けば自宅の冷蔵庫にはホットソースとチェダーチーズしか入っていないという。

  つまりは全くの仕事中毒、仕事と本への愛着が、食べ物への執着を削ぎ落とした結果であった。

 

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   しばらくの談笑ののち、再び小部屋へと消えていった。アリーは向かいのカフェへと出向いていった。

 

   桔梗はレジ横の貯金箱へとおつかいの釣り銭をねじ込むと、昼飯の事を考え少し気を良くした。
    人間、うまいモンの事を考えれば大抵幸せな気分になれるのだと考えていた。長く抑うつ神経症をやっていると、見逃していた単純明快な対処法に気付くこともあるのである。

 

   タイ料理店のメニューを頭に描いた。香辛料たっぷりの汁類、ココナッツの風味のカレー、グアバジュース、一昨日食べた粥飯。これらを夢見るように思った時、居座り続けた憂鬱神経団はどこか消え、しばし留守となった。腹がグーと鳴る。

 

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   とそこへ、長身の藤枝が突如ヌッと姿を現した。

  度肝を抜かれ、桔梗は危うく貯金箱を床に割るところであった。藤枝は筋肉の無い、老人のような体躯だが背丈はゆうに百九十センチを超える。まるで高木の葉をむしゃむしゃ食うキリンだと桔梗は思い、またも腹が鳴った。

 

  藤枝は咳払いし、

   「自分なりに考えたんですが」

突然、そう切り出した。

 

                            (第4話へつづく)