「あなたは最高」第19話(全20話)
キムと桔梗を交互に見遣った。
「…繰り返すけれどね、ここには誰も来やしない。もう丸5年、こうしてカウンターに座って、外を見つめているけれど、誰1人来ないのさ。あたしゃね、ただ、話し相手が欲しかったというわけさ。ひたすら見続けていたんだ。残された、この左眼でね」
そうして2人へと向けた左の視線を、急に穏やか弛ませて、微笑んだ。
「まるで見えておらんのでしょうな、お二人には」
老人はずずず、と無作法に紅茶を呑んだ。
「右がダメでも、左はあるんだ。気づいちゃ無い。いやむしろ、見まいとしているんだ」
桔梗はキムの顔を見た。キムも同様の顔をして、桔梗を見返した。すると老店主は頷くこと数度。
「視線を凝らしなさい。あらゆる方向、あらゆる角度から。片眼であろうと、それは可能なんだ。あんた方は贅沢にも両眼を備えている」
「ー裏手の丘に行ってごらんよ」
またも唐突に言った。
「今頃の時間が、一番綺麗なはずだ。あの丘には、時々死んだ家内と行ったものだ。視力の悪い同士が、互い手に手を取り合って。美しい記憶だ」
言い終えるなり、元のぶっきらぼうな表情に戻った。
「本の配達、ご苦労さん。誰も来やしないところに、お嬢さん方はやって来てくれた。ここに誰かがまた来ることなど、おそらくはもう無いでしょうな。何せ、薄気味悪いと評判のこのあたしがいるんだから」
見えない右眼が物言いたげであった。
「ーさあ、行っておいで。脚の悪いあたしには、もう登れない丘だ。目にすることのできない、あの空だ。あたしの右眼がかつて見た、とっておきの光景さ。お行き」
ビスケットのカスを無造作に払うと、よろよろ立ち上がった。杖を握った。奥の部屋へ姿消そうとして、一度、振り返った。
「ーいつか、またどこかで会うときは、きっと私の左目は、右目と揃いの義眼になっておるでしょうな。何せ、視力はもう殆どないくらい低下しているのさ。さだめといえど、失明とは、これ以上なく惨めなものだ。…では、ごきげんよう」
(第20話へつづく)
「あなたは最高」第18話(全20話)
粗末な義眼だった。ピンポン球にマジックペンで黒目を描いただけのような簡易式、おまけ手垢で黄色く汚れている。
「薄気味悪いでしょうか。まあ、いい。誰だって、最初はそういう表情を見せるものですな。客はあたしを怖がってるんだ」
何と言えばいいのかわからず、ただ突っ立っていた。老人はまた1枚ビスケットを出して、先ほど同様、紅茶に浸し咀嚼した。
「お嬢さん方。捨て去られた脚と目を、いまだ私が惜しがっているとでも思いますかね」
店主がビスケットを飲み込むと、皺だらけの喉がぐいと扇動し、胃袋へと落下した。
「どうでしょう…」
2人は返答に困った。顔を見合わせる。本の話題が無いことに違和感を感じる。だが店主はまるで意に介さぬようだった。耳に届かないと言わんばかり、次々言葉を紡いだ。
「まあ、わからんでしょうな。あたしの話なんぞ、誰も聞きやしないのさ。気味が悪い爺と、口を利いたら厄介事に巻き込まれるとでも思ってるんだろうよ。…あたしゃね、家内を亡くして、もう独り身なんだが、独りになってなおのこと、独りなのさ。もう、店の奴らもあたしを見なかったことにしようとしてるのさ。あたしの脚も、眼も、何もかも。ここは狭い田舎街だからね、一部の人間に捨て去られたら最後、噂やらで全部に捨て去られてしまうのさ。あたしの視線は、もうとっくのとうに一方通行なのさ。もう、何年も一方通行の繰り返しでね」
妙に深刻な声音を響かせるものだから、無意識に2人は耳を傾けた。
老人は、眼窩に浮かぶ自らの右眼、安っぽいピンポン球の義眼を、今度はコツコツ指で弾いてみせ、さらに言うのである。
「いいかい、私はね、右眼を失ったおかげで、この左眼には、かつては決して見ることが出来なかった様々が見えるんだ。綺麗なもの、薄汚いもの、それこそ何もかも、驚くほど鮮明な輪郭をもって映るようになったんだ」
キムと桔梗を交互に見遣った。
「…繰り返すけれどね、ここには誰も来やしない。もう丸5年、こうしてカウンターに座って、外を見つめているけれど、誰1人来ないのさ。あたしゃね、ただ、話し相手が欲しかったというわけさ。ひたすら見続けていたんだ。残された、この左眼でね」
(第19話へつづく)
「あなたは最高」第17話(全20話)
どうも湿気っている。
店舗は仄暗く、客の姿はなかった。
挨拶に出た書店主は70過ぎ、痩身の老店主で、同じ暗褐色の、殆どサングラスのような眼鏡を掛け、杖をついていた。
彼は丁重とは呼べぬ仕草で本をカウンターに置いた。すぐ椅子にドサッと腰掛けた彼は見れば右が義足で、書棚の横には数本の歩行杖が立て掛けてある。手入れの施されぬ杖はどれも、古びた表面をなお一層のこと干からばせて、夏に死んだカエルの背中の如く、乾き飢えていた。
それにしても何と薄暗く、埃っぽいことか。
平積みされた本は汚れ破れかけてさえいる。一体いつ開店したのか。そもそも、商売をしているのか。陰気な店だ、と桔梗は内心つぶやいた。
「どうです、この街は。東京とは勝手が違うでしょう」
労をねぎらってか、店主はティーポットの紅茶をソーサー付きのカップに注ぎ淹れた。
飲むよう2人に勧めた。これもまた薄汚れて、カビ臭かった。
彼はどこからかビスケット箱を持ってくると、1枚取り出し、紅茶に浸して食べた。しばらく味わい深く口に含んで、
「ここにはね、数年来、誰も来やしませんでしてね」
そんなことを突然言う。
「とうに捨て去られたんですよ。ホラ」
そう言って掛けていた眼鏡を外し、右眼を指差して見せた。キムと桔梗は息を飲んだ。右脚ばかりか、老店主は右の眼もまた不自由で、義眼を嵌め込んでいた。
(第18話へつづく)
「あなたは最高」第16話(全20話)
ーなんて下手くそなんだ。話すのが怖い、人間の下手くそだ。
不安の問題を口にしたものだから、それはつまり鬱屈神経団を呼び寄せる呪文だった。桔梗の手指、強いては身体全部を、このように硬くゴワゴワ苦しめるのは、いつだって彼らなのだ。彼らは何かと付き纏い、執拗な追跡は途切れることなかった。
桔梗は悲しくなって、バスの吊り革の振幅と車窓からの夏空を切なく見つめた。
最初から、素直に白旗を振るべきだったのかもしれない。そうしたら、きっと楽だったはずだ。
(もう、だいぶ疲れている。私は、疲れたんだ)
神経症にひざまづいてしまえたら。いっそ、彼ら鬱屈神経団へ忠誠を誓ってしまえたらー。そういう選択肢だって、当然あったはずだ。...
「まさか今日中に頂けるとは思いませんでした。どうもありがとう。さすがにお嬢さん方はお若いだけあって、力持ちのようだ」
中規模モールの二階、一番端の店舗だった。ハーマンのメモ通り、「溝口書店」とある。
店舗は仄暗く、客の姿はなかった。どうも湿気っている。挨拶に出た書店主は70過ぎ、痩身の老店主で、同じように暗褐色をした、殆どサングラスのような眼鏡を掛けて、杖をついていた。
(第17話へつづく)
「あなたは最高」第15話(全20話)
桔梗は珍しく語気を強めた。
「鬱屈神経団を追い払うには、それしかないんだ。目一杯楽しんでいないと、ふとした瞬間にあいつらがやって来るんだ。心の隙間へスッと入り込んで、真っ黒けに汚すんだ。だからご機嫌を衒うんだ。呑気を衒って、人生を衒っているんだ。どんなにサイテーでも、きっとこれは最高なんだって、一生懸命一生懸命、頑張って勘違いをしているだけなんだ。鬱屈神経団に負けないように。不安の支配下から逃れるために。心をいじめたかないよ。心を護るのは、結局いつも自分だけじゃあないか」
碧色の瞳を静止し、キムは無言のまま、桔梗の顔をまじまじと見つめた。
口元を少し呆けたように緩ませている。
その緩みは、碧色の瞳へ、柔らかい濁りを与えているようで、この時、キムの面は蝶の鱗粉をひっ被った優しさを見せた。
自らの核である、不安障害による葛藤を、いちどきに吐露してしまった。
強い自己嫌悪に苛まされた。思えば思うほど、重たい石が次々胸に運び込まれる。だいぶ重量を増して行くようである。
バツの悪さに、それっきり黙り込んだ。ずっと言葉なかった。キムも同様、じっと口を閉ざしたままだった。店員達のタガログ語だけがひたすらに飛び交って、その後もずっと賑々しく、陽気に響き渡っていた。
シャトルバスの車中においてもなお、2人の会話は閉ざされたままだった。互いが互いの主観世界に身を置いていた。
キムはじっと、流れてゆく車窓からの景色を目で追っていた。わずか開いた窓からは風が入った。それは彼女の繊細な髪をたなびかせ、時折、目を閉じた。
(第16話へつづく)
「あなたは最高」第14話(全20話)
ーでも、いささか事情が違ったわ」
キムは煙を吐いた。
「私はただ逃げ出すためだったけど、彼は違った。ちゃんと目的があって、ちゃんと未来を築こうとしていた。キチンと目的があっての訪日だったのよ。つまりね、あたしとはもうその時点で既にバラバラだったわけよ」
彼女は拳を握った。
「ねえ、サイテーよ。全部、無駄骨だったんだから。あたし、夢見る前にあんまりにも失望させられたのよ。こんなはずじゃなかったのに。何が一番サイテーかって、あたし自身がサイテーな女になろうとしてるってことよ。浮気なんかされて、夢もないんだから。夢がどういうものかすら、分かっちゃないのよ。あたし、自分が好きじゃないわ。大嫌いよ」
「そんなことない」
急に大きい声をあげてしまった。慌てて声をひそめる。
「サイテーなんかじゃない。誰も、誰も彼もサイテーなんかじゃない」
…そんな哀しい言葉を、口に上らせたら駄目だ。
桔梗は心の内で叫び、キムに伝えたかった。
ところが友人は鼻を鳴らし、冷笑してみせた。
「いいわね、キキは。なんだかいつも、お気楽そうで」
ー違う、と桔梗は反射的に思った。
お気楽だなんて。愉快だなんて。自然にそんなこと出来たのなら、そもそも神経病みなどなりやしない。サイテー、だなんて。サイアク、だなんて。そんな言葉は要らない。もう充分使い切ったのだ。だから、わざわざ持ち込んじゃいけないんだ。
「違うんだよ。楽しそうに見えても、本当は違うんだ」
桔梗はうつろに言った。
(第15話へつづく)
「あなたは最高」第13話(全20話)
キムは煙草を灰皿に押し付け、ぐしゃぐしゃ揉み消した。
「ああ、うるさいったらありゃしない。もう磨り減りそうって時に」
桔梗は黙って次の言葉を待った。
「知ってるんでしょう?きっとアリーから聞いてるはずよ。ーあたし、ここのところ彼とうまくいってないのよ。もう、全然だめ。おしまいよ」
なおも桔梗は黙って聞いて、聞いているうちに、どうもこの友人は長らくー、ずっと長らくの間、自らのこの話題に、決して自尊心を傷つけてこない、従順で人畜無害、かつ熱心な聞き手の登場を待ち焦がれていたことを識った。
その点に於いて、桔梗は聞き手として及第点だった。
面持ち険しく、口調はぶっきらぼう、暗い眼窩を光らせて、キムは恋の辛抱について、果ては母親との軋轢による諸々の苦労についてまでを語り始めたのだった。長い話だったが、桔梗は耳を傾けること厭わなかった。
彼女のボーイフレンドは、互い幼少期を共に過ごし、高校まで一緒に育った仲であった。キムの母親と彼の母親は、それこそ友人だったが、あるとき仲違いして、険悪になってしまった。
成長し、恋人同士になると、母達は若い2人を引き離すべく、手段を選ぼうとはしなかった。
ボーイフレンドは遠くへと転校させられ、寄宿舎暮らしとなり、キムはキムで、母親の選んで来た薄気味悪い中年男に引き合わされて、勝手に恋仲を仕立て上げられてしまった。
「後で知ったけれど、あの2人はお金でもめてたのよ。ショックだったわ」
キムは次の煙草に火をつけた。フーッと吐いて、桔梗も神妙にコーヒーを啜った。
「…だから、少し経って家出したわ。彼はメルボルンにいたけど、東京に行くつもりだって言うから、それを目標に貯金したの。大学は諦めて、とにかく彼と、一緒に逃げ出したかった」
(第14話へつづく)