「マラカス奏」第11話(全15話)
(前回までのあらすじ)
友人マーク夫妻のカフェ・モーブより帰途についた茜と菊比呂。
中央線の運転見合わせをキッカケに、菊比呂は従妹の茜宅に一晩世話になると決めたのだが...
「ここからが、私の敷地」
と彼女は得意げである。
従妹の住まいのオンボロ平屋は、菊比呂にとって衝撃的だった。
それこそ、朽ちかけた廃屋である。縦横無尽に伸びるツタ、家壁に生える苔、古い引き戸の色は風雨に晒され劣化し、右斜めに傾いている。悲惨な外観だが、内装はまずまず修理が行き渡っていた。彼の心悸は、やっと落ち着きを取り戻したようである。
ーしかし、耐え難い試練が待っていた。
この平屋の寒さと言ったらないのである。薄い赤革コートの前身ごろを、胸の前へぎゅっと手繰りよせ、震えた。
床は氷上さながら、冷えている。やが彼の歯は音を立て笑い出し、それに気付く風でもなく、
「ストーヴ、つけたよ。暖かくなるまで、三十分はかかるから、菊ちゃん、少し待っててよ。熱いコーヒー、今すぐ淹れるからさ」
など、慣れっこの従妹は呑気である。
当たり前の様に言うので、彼はカチンと来てしまった。菊比呂にしてみればここは戸外と何ら変わりない寒さで、風邪を引くために呼ばれた気分だった。小さく舌打ちして、彼は南阿佐ヶ谷の自室、熱いシャワーを浴び、羽毛布団を掛け眠る夜を、心底惜しまずにはいられなかった。
茜の晩御飯はこの日、グラノーラにバナナを添え、豆乳を注ぎかけただけの、朝食みたいなメニューだった。
先日の、千疋屋の水菓子が彼女の貧乏暮らしに大打撃を与えて、茜はあれからずっと、節約してもしきれない程、節約すること余儀なくされていた。夜のグラノーラが食卓に上がること数回、全ては千疋屋のせいであるから、もうあんな高級菓子店なんぞ二度と行くもんか、と逆恨みのような反省のようなである。
彼女の言った通り、三十分経過した頃からようやく部屋には暖が行き届いて、菊比呂はホッと胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
(第12話へつづく)
「マラカス奏」第10話(全15話)
菊比呂は南阿佐ヶ谷に住んでいた。もろに足止めを食らい、しかしながら彼は明日もモーブのアルバイトである。仕込みがあるため朝早い。
普段なら、近所のうるさい小母さん手前、この奇抜な恰好の従兄を招いたりはしない茜だが、底冷えの今晩は別である。オンボロ平屋の四畳半を提供すると伝えた。菊比呂の方も、そんなら丁度よかったと言って、北多摩湖線へ乗り込んだ。
冬至の暗い夜に、亡き兄を思うとしんどい。太刀打ちかなわない。例え、変人めいた菊比呂の、赤髪赤コート赤ブーツ姿であっても、誰かの気配に茜は充分救われるのだった。
萩ノ坂駅で降車し、駅舎を出た。
菊比呂は寂れ具合に呆れ果てた様子である。
「ここは、どこだ?」
彼はまたもキョロキョロとした。
「萩ノ坂」
「ここは東京なのか、埼玉なのか」
「東京だよ。私は都民なんだ」
「どうしちまったんだよ、この界隈は。死人の街だな」
あいにく駅舎周辺には蕎麦屋以外、何も無いのである。その蕎麦屋も休みときて、辺りには風の音しかしなかった。
駅からすぐの、多摩湖自転車道に沿って、二人は東へ歩いた。二十分も行くとアジサイ園の看板が見えて来た。低い土階段が敷かれ、茜は慣れた様子で下っていった。不安を隠しきれないまま、菊比呂も、後に続いた。
土階段を降りて、人がやっと一人通れる幅の、狭い路地が伸びていた。途中、錆びた門が二つあったかと思うと、その都度、軋ませ押し開けて、三つめの門に達すると、これもギギと開けた。入るよう、彼の従妹は促した。
(第11話へつづく)
「マラカス奏」第9話(全15話)
三十分位して、菊比呂は戻った。
マフラーを巻かない首は、なおのこと蒼く乾燥して、粉を吹いている。ポケットに両手を突っ込み視線はキョロキョロ、もはや不審者の体である。マイアの件でグダグダ言い始めた。
「終わったことでしょ。何もかも、過去だ。死んでしまった過去だ」
珍しく語気強く茜が言った。菊比呂は一瞬口をつぐみ、すると夜風が、両者の胸間に自然吹き入った。
「菊ちゃんだけじゃないよ。みんな、たった一人だよ。お兄ちゃんは、私達が丼ご飯に舌鼓打ってたあの時分、血管ちぎれて、路上倒れたじゃないか。見知らぬ野次馬に囲まれて心臓マッサージを受けたんだ、まるで命が見世物だ。で、逝ったんだ。誰にも何も言えず、苦しいもサヨナラも言えず、急に、一人で逝ったんだ。お兄ちゃんの気持ちにもなってみなよ、菊ちゃんは死んでないから、一人でも一人ぼっちではないよ」
心細かった。
「隆兄のことは、確かに、可哀相だったよ。お前は、よく頑張ってるな。悪かったよ」
反省の色を浮かべて、今度は菊比呂が茜の横顔を盗み見た。
「だから、パチパチ打って、書いているのか」
「そう」
「俺も毎日じゅうじゅう、マークのところで、肉を焼きまくってるぜ」
従兄妹は、隆を、過去に置いてきぼりには出来なかった。彼らはパチパチやらじゅうじゅうの方法で、生きた足跡を残し、息吹をつなぎ止めようと試みた。肉料理が大好物の兄・隆志は、従弟の菊比呂が作る生姜焼きを、いつも、うまい、うまいと、喜んで食べ、嬉しそうに笑っていた。
人身事故だとかで、中央線は運転を見合わせていた。
(第10話へつづく)
「マラカス奏」第8話(全15話)
「仕方ないよ」
菊比呂は甘美なみじめったらしさに浸かっている。茜は呆れと同情をこめて、従兄の青白い横顔を見た。
「マイアには好きな人がいるんだからさ。それに、別の恋がどうせすぐまた、やって来るって。保証するよ。菊ちゃんは惚れっぽいから」
「じゃあ、誰か紹介してくれよ。今すぐ紹介してくれよ。俺たちは従兄妹だろう」
「ヤケは良くないよ」
二人は竹林を抜け、お屋敷の角を曲がり、駅前までやって来た。
「そういえば、今晩は冬至だな。花井神社で夜祭があるね」
菊比呂は孤独らしく言った。茜はというと、原稿のことで頭がいっぱいで、これもぼうとやり過ごす。しかし菊比呂と共に、夜縁日へ赴いた。
宵闇に浮かぶ行灯を、じっと見つめた。瞼の裏に、隆のそばかす乗っけた笑顔が浮かぶ。
一生懸命だった、一生懸命生きた。亡くなった兄の隆は、今日の茜と同じように、じっと何かを眺めて、一人悦に入る男だった。
白酒をひっかけ、満ち足りた思いで、ぷらぷら散策した。境内には夜店が軒を連ね、その軒先にぶらさがるは淡い恋色の灯、茜は自然、微笑んでいる。
...水彩絵の具でも、溶いたんじゃないか。
ひそか独語する茜も、淡く酔っている。鼻唄まじり、ぶらぶら歩く。シンと冷え、澄んだ夜空から見下ろし眺めている。
菊比呂は、どこへ行ったか、姿くらまし消えていた。従兄妹は、子供の時分より、出掛ければ十分経たぬうちからはぐれるのが常で、渋々隆が束ねた。飽きた片方が、とうに帰宅していた、ということも、決して珍しくなかった。二人の友好関係は、大人となった今でも健在である。
(―それにしても厄介極まりないなあ、あの時の菊ちゃんに、マイアは随分と困った様子だったよ。自分の従兄が、あんな派手派手しい演出の告白なんてして、今後どうみんなに顔合わせればいいか。土屋君はポカン顔、ゾイは俯いて失笑。結果と言えばフラれて終わったんだ。話しにならないよ。ああ、これから色々、気重で気重で気重だ)
茜は同僚の三人が、自分と、自分の従兄の失態を笑って、それこそ道化扱いしているのでは、と暗く空想した。
(第9話へつづく)
「マラカス奏」第7話(全15話)
マークが小さくあくびした。自分と蓉子、菊比呂の分のホットチョコレートを淹れた。そして、それぞれが飲んだ。
しばし味わってから、マグカップを料理台に置いたマークは、いつもの間延びした声で、
「クリスマスは何処へ行こう」
と蓉子に目を向けた。温泉がいい、と彼女は言った。あれこれ、行きたい場所が浮かんだらしく、やがて十くらいもの候補地が挙ってしまった。マークは、ふーむと顎をさすって、最終的に、二人は行き先を御殿場に決めた。寝不足の茜は、この会話をぼうと聞き流している。
「ああ、何だよ。いいなあ、イチャつきたいもんだな」
菊比呂は呟いて、
「俺はといえば、痴女専用の男なんだよ。ヘンタイばかりにもてて、嬉かねえな。俺は、マークが羨ましいよ。あの二人は充実してるじゃないか」
恨めしそうに独語した。
「俺の心なんて、カスッカスのスッカラカンだよ。高貴なマイアさんは、高貴がゆえに俺を見捨てたんだ。凍える日に隣を行くのが従妹の茜じゃあ、テンションも下がるな。不条理、不幸の星だよ。生まれて来て、どうもスミマセン」
薄っぺらい真っ赤なレザーコートを羽織り、同じように真っ赤な菊比呂の長髪は、次第強まる寒風になびいて、カサカサと傷みきっていた。陽だまりの昼から一転、寒波近付く街は凍え縮んでいる。
(第8話へつづく)
「マラカス奏」第6話(全15話)
蓉子は一等明るい、日向のテーブルに茜を通した。
「この席、実は茜ちゃんの為に、取っておいたの。マークには内緒よ」
人差し指を口元へ当ててみせる。
「ゆっくりしていってね。ーねえ、本の虫はだんだん減ってしまっているでしょう、何だかこの頃、わたし心許なく感じてしまって。沢山読んで、沢山書いて、将来、きっといい小説を書いてちょうだい。良かったらマークやうちのカフェをモデルにしてくれたっていいのよ」
店内左奥の厨房では、マークとアルバイトの菊比呂がじゅうじゅう肉を焼いている。昼時とあってカフェ・モーブは混雑していた。
世間はクリスマスムード一色、マークの店ではローストビーフとパイ料理、自家製ホットチョコレートが人気で、天井の低い、こじんまりとした店内は、料理の匂い、それを味わうお客たちの、にぎやかな会話と熱気で充満し、如何にも十二月である。
お遣いから戻った菊比呂が、スーパーの袋片手に、ぶるぶると身震いして、
「何て寒さだ。何でこんな日に限って買出しなんだよ、マークは鬼だな」
とストーブに凍える手をかざしていた。ホットチョコレートをうまそうに飲む茜と目が合うと、チッと舌打ちして、
「―何だよ。悠々として。なんというか不公平、不条理の代表選手だ。俺はね、そういう星の下に生まれたんだよ。想像妊娠で生まれたんだよ」
と、打ちひしがれる自分に酔っているようでもある。彼は「ドリアン・グレイの肖像」を耽読して、最近ではナボコフにも傾倒していた。モリッシーとデビッド・ボウイ、兎角ゲンスブールに至っては神仏の如く崇拝している。
菊比呂は最近、何かと痴女の被害に遭っている。元々不運を美化する傾向の彼である。彼は茜の友人マイアに片恋の末、派手に敗れたが、この不幸こそ美と捉え、結局は充足に至っていた。
「マラカス奏」第5話(全15話)
N社のKという人物より連絡があったのは、つい一昨日の夜である。
金は出せないが、良いものであれば載せる、と言った。急だが、次週までに仕上げるよう告げて、先方はというと一方的に電話を切った。
作家への足掛かりとなる機会を得たとあっては、俄然、張り切る。先月、財産はたいて購入した中古パソコンを、カバンに詰め常時背負いこんでいる。駅構内、図書館、街路樹の下のベンチ、腰掛ける度ごと、パソコンは開かれた。
街じゅうが書斎である。締め切りは、間近だ。
何某の末裔のお屋敷を囲む、白塗りの壁をしばらく右手に進む。竹林を抜け、再び視界が開けた所に、友人のマークと蓉子、彼ら夫婦の営むカフェ・モーブは、チョコンと愛らしく座していた。
古書店・宵空堂は、この日臨時休業していた。シャッターが下りていた。そこでモーブという流れになった。ドアを押し開けると、火曜日と同じザ・スミスが流れている。小柄で鳩胸の蓉子が、早速気付いて、茜を迎え入れた。
名門女子大学を卒業、薬剤師の免許を持っている。
蓉子は育ちの良さから、品良く振る舞ったが、箱入り娘特有の、信じやすさが災いし、時折素っ頓狂な行動に出ることで有名だった。或る夏など、パナマ運河を見に行くといって、単身、中南米へと一ヶ月もの間渡航し、旅行最終日はジャマイカのスラム街をただの身一つ、無防備に歩き回ったというのだから、素っ頓狂であることに間違い無かった。
危険や悪人というものが、おおよそ世の中には存在しえないという腹で、呆れるほどの性善説信奉者であった。
(第6話へつづく)